祐泉寺と三島明神腰掛け石
  数年前に三島郷土館の方より三島明神の腰掛け石についての問い合 わせがありました。『豆州誌稿』の中で、その石が祐泉寺にあったという内容でした。寺伝に詳しい資料も無く、だれも知らないだろうと思っていたところ、87才になる母が祐泉寺にとついできた頃、近所の古老が「その石らしきものは確かにあって、三島大社におさめた」という話を聞いたことがあるというのである。具体的な話でなく、ようをえない受け答えしかできずに電話を切ったのですが、その後三島郷土資料館より「資料館だより」が送られてきました。三島明神のル−ツに関わる話なのでその原稿の一部を取り上げてみました。

 三島には、現在判っているだけでも『三島明神腰掛け石』の伝説が二ケ所あります。
 三島明神とは三島大社の神であり、いつの時代か海を渡って伊豆半島につき、やがて陸路を北進し、ついに現在地を鎮座地としたいわれがあります。つまり三島明神の到来は『三島』という土地の名称の起源説の一つにもなっており、三島にとっては極めてゆかりの深い神ですから、その腰掛け石といえば、重要な史跡といえます。
 伝説の一つは、昔、祐泉寺にありました。伊豆地方の郷土史の原典として知られる「豆州志稿」(寛政年間、安久の秋山富南の編さん)には「松井山祐泉寺 市ケ原 相州湯本早雲寺末 寺内ニ石アリ三島明神腰掛石ト称ス 四段四畝十歩」とありますから、当時は寺内に存在していたのでしょう。現在は石はなく、昔あったこと、三島大社にうつしたらしいことが言い伝えとなっています。祐泉寺は現在の三島大社にもほど近く、下田往環沿線に位置する寺ですから、三島明神が遷宮されてきたとき、この地に腰を下ろしたであろう事は充分うなづける伝説です。
 もう一つは宝鏡院(川原ケ谷)と伝えられています。明治期に記された「伊豆国君沢郡川原ケ谷村景況」に-------中略-----現在でも『笠置石』と呼ばれて残る石がそれです。
 このように、「三島明神」という神様が腰を掛けたという、実に人間的な伝説の石が、現在の三島大社からそう遠くない周辺に二つもあって、その伝説が現在も伝えられているということは興味を引かれることでしょう---

 わたしにとって始めて聞く話でしたし、多くの方が「郷土館だより」を見る機会がないのではないかと思い載せてみました.。

  三島市郷土館だより Vol.21.No.1   1999,3 ,1 参照