神奈川県の歴史研究家の藤縄勝祐氏より豆州志稿(伊豆地方の江戸時代の郷土資料)の中にも第六天社についていろいろな情報がでていることを教えていただき、さっそく調査してみたところ君沢郡(現在の三島市付近)と田方郡、賀茂郡等実名をあげて49社あったことが判明、また祐泉寺のように寺の境内や個人所有の第六天の数を考えると膨大な数にのぼるのではないかと思われる。豆州志稿の中で、現在の三島地区にある第六天社を上げてみます。
@三島町柴【旧】第六天【増】村社芝岡神社 祭神不明或は高皇産霊神
A梅名村【旧】右内神社【増】村社右内神社 境内に第六天
B一町田村 第六天
C長伏村 第六天
D安久村 第六天
※【旧】江戸時代期の旧称 【増】明治期の萩原父子による増訂
@芝岡神社
上記の神社については芝本町の祭典委員の菊川幸三氏(元小学校長)より伺ったり、現地で調査したものである。
芝岡神社は江戸期、第六天社と呼ばれていたもので、江戸地代の宿場の世古本陣内(現本町の第一勧銀付近-石碑あり)に建立されていた。しかし言い伝えによると、裾野付近の米山家より富士噴火より避けるため世古本陣に移転した。明治4年に芝岡神社と呼称を変え、芝町の氏神として祭られるようになった。名前の変更については、全国的に似た傾向がある。祭神は高皇産霊神であるとされている。しかし、江戸末期は国学の影響より第六天神と呼ばれていたものが皇産霊神と変化していった例が多くある。
昭和27年、現浅間神社(芝本町)横に移転される。神殿の大きさも隣の浅間神社にせまる規模である。現在は二つの神社とも芝本町の氏神として7月15日と16日に祭事がおこなわれ、特に16日は三島市仏教会と連携して灯篭流しをおこなっている。
A一町田 第六天
一町田には八幡神社という市内では大きな社にあたる神社が大通りに面してあるが、この地区の第六天は個人の土地の中にあった。昔から手広く農業を経営されていた
加藤 武氏の庭内にあり、大きさは畳半畳ほどの小さな社であった。社の左には太さ30cmほどの樹木の根が土台の溶岩にからみついていたのが印象的であった。加藤氏の話によると戦前は村の人たちが祭りをやっていて、子供達にお菓子をあげていたこと、又疫病にならないように願ってお参りをしていた人も多かったことなど----
---。ただ、現在は八幡神社の祭典(7月15日・16日)の時に掃除を兼ねてお神酒をあげている程度で、活動はしていないということであった。
B梅名 右内神社
明治期の萩原父子の豆州志稿増訂版より右内神社境内に第六天が明記されるようになる。明治政府の政策の影響ともいえるかもしれないが、江戸時代に村などで維持されていたものが、一緒に合祈されるようになったのではないかと思われる。現地へ行ってみると、第六天らしき建造物は見当たらなかった。
後日、右内神社の氏子であり、梅名地区の歴史家の小泉安三氏より、本殿の右横にやや小さい社があり、外からは見えないが5・6室のしきりの一つに第六天(木簡)が祭られていることを教えていただきました。そこにはいろいろな神が混在しており、言い伝えもはっきりしてなく、このような神も歴史の中に埋もれてしまうのではないかと思いました。
C長伏・安久の第六天
上記の梅名・長伏・安久は以前5年間勤めていた中学校(三島市立中郷西中学校)の学区で、中郷地区と呼ばれ隣接している。現在どこにあるか全く不明であるが、安久には小さな神社があるので合祈された可能性もある。なお、上記の地区の第六天の情報については古泉氏に継続して依頼してある。
おわりに
祐泉寺の第六天のような寺持ちのもの、また村持ち、有力な個人持ちのもの等江戸時代は、仏教と神道が一緒になって様々な神が信仰されていたものと思われる。
以前より寺の書院の庭のすみに、男根と女性器を象徴した高さ30cm位の石仏があり、なぜそんなものがあるのか不明でした。藤森氏が江戸時代の神の変遷の中で第六天神(面足尊・惶根尊)のカップルとしての神から五穀豊登・夫婦和合も信仰されていたと指摘していたが、その神としてのご神体がまさにそこに存在した。
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他にもあった第六天--三島地区
右内神社
右内神社横の社
(一区画に第六天の木簡)