以前に祐泉寺境内の第六尊天について調査してみましたが、少ない資料からは、なぜ第六天がここにあるのかわかりませんでした。ただ、前より織田信長が第六天の魔王というものを信仰?していたことと祐泉寺を創建した北条新三郎氏信(早雲の孫)が同時代を生きていたことが関係しているのではないかと思っていました。
 第六天のお祭りが終了してから、再度その納得できる由来を知りたく、ホ−ムページを検索していたところ、横浜在住の方が、全国の第六天を調査して2冊の私製本を出している事がわかり、さっそく取り寄せました。膨大な資料をもとにA4判で100ペ−ジに及ぶ第六天の調査書で、その中には豆州志稿より君沢郡(三島付近)の第六天に関する資料もあり、驚嘆したしだいです。本人の許可を得て、その一部を抜粋して紹介してみたいと思います。
第六天について私が一番知りたいことをこの本の著者である藤森氏は次ぎのような推理を膨大な資料を用いて発表しています。特にその根拠となるポイントを【 】の中に示す。

@起源
 平安時代から室町前期にかけて※第六天は仏教、特に密教の神として認識されていた。その場合は『魔王』としての存在であった。密教から修験道に受け継げられた。
 ※第六天は別名他化自在天と呼ばれ、仏教を守護する神
  【平家物語、太平記、沙石集】

Aなぜ広まったか
 戦国時代、『第六天魔王』と自称し、既成仏教の権威を破壊した織田信長など時代の価値観が変化し、又、戦国の騒乱の中民衆の信仰が広まる機運があった。
  【日本の耶蘇会年俸--イエズス会宣教師の手紙】
 元亀3年の武田信玄西上に際し信玄からの書状で『天台座主沙門』と信玄が署名したのに対し、信長は『第六天魔王信長』と署名した返書の記録が耶蘇会にある
      ※第六天魔王信長-上下の文庫本の紹介
         羽山信樹著 角川書店/角川文庫 

B相模・武蔵・伊豆に多い理由
 武田家が織田に敗れ、民衆は占領軍への迎合から『第六天魔王』の象徴を建てて、自らの護符にした。一方、武田家の旧家臣や交流者を通じて、隣国の北条氏へと広まっていった。特に秀吉の小田原征伐以降、北条家や武田家の家臣団は権力側の目に触れにくい場所で百姓として定着を図っていった。これらのかなりの部分が第六天を担ぎ、周囲の農民たちの民族信仰を広げ、一部は常陸、東北まで逃げた。
  【諏訪路における第六天魔王の石碑、各社の勧請年代、勧請者】

Cいつどうして祭神が入れ替わったか
 徳川幕府の安定に伴い、語感から七福神などの同類と見た民衆は『魔王』としての存在よりもっと身近な神を探し出す。神道の記紀神話の中で天地を創った神々の中から、六番目の神すなわち第六天神として面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)のカップルの神として魔王から国土生成、五穀豊饒、夫婦和合等へと性格を変えていった。江戸後期の国学者の平田篤胤らは復古神道よりそのニ柱の神を 『皇産霊大神(すめむすびのおおかみ)』と称し、民衆に大きな影響を与えた。
  【古事記、日本書紀、戸塚区上矢部の社の大禄天の石碑】

Dなぜ消えていったか
ア、第六天が仏教の神か記紀神話の神か不明である性格上、明治政府の『神仏判然 令』にふれるものと解され、大部分の社が名前を変え、さらには祭神を変えて生き 残りをはかった。
   【大仏次郎『天皇の世紀』、各地の神社関係調査記録】
イ、第六天を含む民間信仰の神々は事実上、修験によって維持されており、修験道の 禁止によって、大部分はその基礎を失った。
   【安丸良夫『神々の明治維新』】
ウ、明治後期の政府の『一村一社令』によって残った第六天社も大部分が小祠であっ たため合祀させられた。
   【南方熊楠『南方ニ書』、各地の寺社関係調査記録】
エ、戦後の進駐軍の政教分離政策より合祀させられた神社の経済が困窮した。一方、 経済開発などにより、従来、第六天社が存在していた辺地や路傍も急速に蚕食されるようになった。さらには、氏子や『講』が減少し、さらに消滅した。

   参考文献 駿河国新風土記
   伊豆志稿・豆州志稿
   残っていた第六天(著者 藤縄勝祐)

              
                          
--それはどこから来て
         どこへ消えたか---

江戸時代より第六天が確認された地域 h22,6,9現在

石碑は多数存在

山梨 5社

長野 4社

御殿場・小山地区
   15社

旧武田領

蒲原地区
 3社

沼津地区
14社

三島
伊豆
50社

相模 686社

武蔵中心に 3080社 

全国の大六天の分布

(関東地方を中心に)