三島大社
至三島駅
至裾野
市役所
郵便局
伊豆箱根鉄道
田町駅
旧国道1号線
祐泉寺
法華寺
西塔
東塔
?
中門
?
金堂
講堂?
薬師寺式伽藍配置予想図
※金堂と西塔は伽藍の遺構発見済
三島市誌上巻参照
2、鐙瓦と宇瓦(祐泉寺玄関内に保存)
大興寺を白鳳期の建立とされた理由のひとつに當寺から出土した瓦がある。瓦は何年経過しても変形せず、形式や文様は時代の特色をあらわし、地域の特徴も把握できる。寺院や宮殿の屋根は、丸瓦と平瓦を組合わせ、端には文様をもつ、軒丸瓦(鐙瓦)、軒平瓦(宇瓦)を飾っていたようである。
軒丸瓦にはハスの文様(蓮華文)を主に用いた.祐泉寺出土の軒丸瓦は単弁で中房には7個の蓮子を配し、外周(周縁)は同心円(三重圏)をめぐらした白鳳期の特徴がよくでており、又全国の国分寺、国分尼寺跡に出土する瓦と共通点が見られる。
3、おわりに
大化の改新により諸国も再編成され、従来の伊豆、駿河、庵原の三国は合併して駿河国となったが、白鳳期の寺院跡が多いいのは富士川以東である。特に三島は当時の交通の要地(伊豆路や足柄路の結節点)で国政の地方における中心点で、かつ富士山やその伏流水の湧水地としての自然景勝の地であった。
白鳳期には、この大興寺の他に北隣の山興寺(塔ノ森廃寺-三島大社東側)及び天神原廃寺の三大寺(私寺)が、また、その後奈良朝後期に国分寺と国分尼寺の二国立寺が建立され、計五大寺院が偉容を誇っていた。当時の寺院は文化の中心地であり現代におきかえれば国立大学2校と私立大学3校があたる、学園都市であったのであろう。
上記の三私寺は昭和28年日本大学教授軽部慈恩博士(故人)によって発掘され、「三島市誌上巻」に報告されている。
特に大興寺跡については金堂、西塔、回廊跡の一部を検出し、この結果より博士は、規模や伽藍配置は薬師寺式伽藍配置と同一であるとした。
鐙瓦と宇瓦
塔心礎
白鳳・奈良時代の五大寺院遺蹟
天神原
廃寺
大場川
新町橋
至三島駅
至裾野
至箱根
約2km
市ケ原廃
寺跡
現在の奈良薬師寺全景略図
奈良薬師寺東塔
730年創建当時の建物
全国の国分寺・国分尼寺に共通して見られる薬師寺式伽藍配置
(赤枠の中)
東僧坊
西僧坊
北口
受付
文殊堂
大宝殿
東院堂
南門
講堂
金堂
中門
西塔
東塔
市ケ原廃寺(大興寺)は白鳳時代(奈良時代以前)、三島大社に関係の深い豪族、丈部富賀満の私寺として建立されたと伝えられている。この寺は後、平安時代(836年)に伊豆国分尼寺焼失後,代用国分尼寺となったが、その規模は祐泉寺の南にある法華寺から三島大社前の旧国道1号線までを境内とした大寺院で東西の塔、南北にわたる中門,金堂、講堂を持つ薬師寺形式の建築物であった。現存する資料は昭和7年に当寺院西側の下田街道の橋の工事で発見された塔心礎と昭和28年祐泉寺本堂裏から出土した瓦があり、当寺院に保管してある。特に塔心礎については柱の太さが1m余りあって、巨大建築物があったことが想像されよう。
1、塔心礎について
当寺院境内には当時の礎石が残っている。塔中心礎石を実測してみると柱座の直径が91p、その中央に径30cm、深さ15cmの円形の穴で、飛鳥から白鳳時代にかけての特徴がでている。この上に塔の心柱をのせるわけだが、塔が高層建築であるのにもかかわらず、強風や地震にも耐えており、現代の高層ビルの工法にも採用されている応用力学の原理が使われている。震動に対しては、しなやかに塔身を微動させることにより震動を吸収してしまうその理由は、各層ごと四本の柱が下から上へと、屋根を支える工法が使われ、塔の中心の柱は、バランスをとるよう工夫されている。この耐震構造の特徴を持った塔が奈良の薬師寺東塔であり、現在まで塔を支えている。
この礎石は昭和7年町内の川島氏(第六尊天の有力信者)によって、祐泉寺西側の下田街道橋げた工事現場より発見され、現在位置に置かれたものであり、その当時のいわれがを書いた石碑が塔心礎の横に立ってある。
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(大興寺・代用伊豆国尼寺跡)
市ケ原廃寺跡