関東の早雲寺末の寺々(2)
願修寺(東光山)
住職 原 宗寛(宝泉寺)
建立地は小田原であったが江戸時代に江戸神田に再興
開山 明叟宗普 開基 太田源五郎
太田源五郎氏資は岩槻城主で初代資房から五代目である。永禄10年防州の里見氏との合戦に北条氏政とともに出陣したが戦死し、氏資没後北条氏の支配となる。広徳寺は氏資の弟資房が兄の為に建てた寺で、法号を『広徳寺殿功林勲公大禅定門』である。秀吉の小田原攻めで寺は荒廃したが、早雲寺第11世希叟宗罕(後で大徳寺第132世住持)は当寺を文禄2年(1592年)江戸神田に再興、家康より寺地一万坪拝領する。後広徳寺は寛永12年(1635年)下谷に移転し、徳川氏の支援の基、前田・立花・柳生・毛利など18諸侯の菩提所として江戸有数な大寺院として発展、早雲寺にかわって大徳寺竜泉派の中心寺院となる。現大徳寺の官長はこの広徳寺の住職であった。
小田原市城内 開山 泰岫宗初 開基 北条氏康室
願修寺は古来真言宗寺院であったが、北条氏康夫人がこの寺の薬師如来を信仰し、早雲寺住職を請じて再興させた。永禄3年、長尾景虎の小田原攻めで堂宇が消滅した。翌年、氏政が城内に再興した。願修寺に関わる古文書もかなりあり、北条氏とは極めて深い関係の寺であったことが想像される。現在は大徳寺末寺としての寺院籍はあるが、建造物はほとんどなく、碑等が残っている。
箱根町塔の沢 開山 燈外宗伝
当寺は正保年間、上原源左衛門が開基となって創建した寺である。上原氏は北条氏の家臣上原定重の孫であり、その因縁より早雲寺の住職に開山を請じたものと思われる。
住職 福富海雲
※広徳寺(円満山)
住職 千代田紹禎(早雲寺)
浄福院(宝塔山)