1、戦国の風雲児北条早雲

 北条早雲は俗名伊勢新九郎長氏と称し、出家して早雲庵宗瑞となのった戦国武将である。鎌倉時代の伊豆の名家北条氏を引き継ぎ、関東制覇の基を築いた人物である。
日本の戦国時代は早雲が伊豆進出から始まって、秀吉の小田原征伐による全国統一により幕を閉じたともいわれる。北条氏は、百年間にわたるこの時代の代表的戦国大名であり、その基礎を築いた早雲は、北条氏の開祖というにとどまらず、数ある戦国武将のなかでも傑出した人物で、戦乱の中八十八才の天寿をまっとうしたことも稀有の例である。
 文明8年(1476年)、今川義忠の戦死によって起こった今川家内紛を治めた早雲は今川家より沼津興国寺城を与えられる。義忠の内室であった北川殿(早雲の妹)の子、氏親を今川氏の後継者にした功績がかわれたのである。伊豆の足利茶々丸、小田原の大森氏を滅ぼし、相模を平定したのは85才であった。伊豆に進出してから25年であった。早雲が、備中伊勢氏あるいは京堵伊勢氏というれっきとした名門の出身であり、足利義視や義尚の近侍、幕府の申次衆として室町幕府に使えた経歴を持ち、その中で応仁の乱を身近で体験したことや、足利体制の矛盾をみつめたことが、既成の観念にとらわれない政治観を育てたのであろう。

2、早雲寺の発展

 早雲寺は大永元年(1521年)、戦国時代の武将北条早雲の菩提寺として創建されたと言われている。しかし、早雲寺が、関東における臨済宗の中本山として一時は鎌倉の円覚寺や建長寺、あるいは本山の大徳寺をしのぐ関東随一の大禅刹(禅寺)として発展した歴史を持っていたことを知る人は意外と少ないのではなかろうか。
 天正18年(1590年)秀吉の小田原征伐の際に焼失した早雲寺は、小田原城落城とともに北条氏と運命を共にしなければならなかった。しかし、寺に残されたわずかな文物によって、北条時代の早雲寺の隆盛を偲ぶことができるだけである。
 しかし、往時、早雲寺がこの湯本の地全体を境内とし、七堂伽藍を備えた本坊と春松院、大聖寺、黄梅院など十数の塔頭(子院)、寮舎の伽藍が林立し、五百名を超える衆僧によって活気あふれていら大禅刹時代を思いうかべることはできる。早雲寺の建立は、関東臨済禅に新風をもたらした。と同時に、当時地方の有力大名、堺の納屋衆の支持を受け、また宗風を慕う連歌師、絵師、能役者などによって産み出されつつあった。
大徳寺文化ともいえる振興文化を東国に導入する窓口となっていた連歌師の宗祇、宗長や千利休の高弟の山上宗二らも早雲寺とはゆかりの人物であった。特に秀吉の小田原征伐での秀吉の茶頭をつとめたことのある山上宗二の惨殺事件は茶道史のうえで忘れることの事件であった。なぜなら全国を統一した秀吉とわび、さびを追求する千利休とのその後の関係が想像できるからである。

3、秀吉の小田原征伐後の早雲寺

 秀吉の小田原攻めに際しては、当寺が本陣となり軍勢で溢れていたと伝えられている。小田原落城後は秀吉によって当寺や境内の多数の塔頭は焼失されてしまった。
 早雲寺の再建に関しては不明な部分が多い。伽藍再建や方丈の襖絵、枯山水庭園など最も知りたい史料や記録がほとんど残っていない。おそらく北条氏の庇護を失った状況の基菊径和尚以下歴代の和尚を中心に、半世紀近い長い歳月末達成されたものと考えられる。
 寛永四年方丈建設から始まって、慶安元年(1648年)、3代将軍の家光のご朱印状下付を経て江戸時代の早雲寺の寺観が整ったものであろう。もちろん全国に散らばった北条氏の子孫の協力なくしては、達成できなかったものであろう。慶長以来、半世紀の長期にわたって漸く再興された早雲寺が旧早雲寺とは比較にならない小規模なものであった。江戸時代の境内地や寺領は、早川南丘陵の一部と入生田村から茶屋村の村境までとされた。湯本全体を境内地とし、平塚土屋郷、小田原の長塚郷を寺領としていた旧早雲寺とは比較にならない。
 かっての塔頭寺院はすべて廃絶し、その痕跡すら残されていない。江戸時代に移転した広徳寺が延べ15の塔頭を擁する大寺院へと発展したのと大違いである。早雲寺末寺のうち他派へ改宗したり、廃寺となったものは少なくない。現在の関東の禅の修業道場として名高い平林寺もかっては早雲寺の傘下にあったものである。江戸時代に早雲寺の末寺として再編成された13ケ寺のうち、新たに開創されたものは、2ケ寺にすぎない。
   
後北条五代の墓所
   早雲寺
創建 大永元年(1511年)
開山 以天宗清
      大徳寺83世住持
開基 北条氏綱
山号 金湯山
住所 神奈川県足柄下郡
    箱根町湯本4-5
住職 千代田紹禎
北条早雲像
方丈(本堂)