大 徳 寺
大慈院
黄梅院
大光院
南門
瑞峰院
龍源院
芳春院
来光寺
大仙院
龍泉庵
興臨院
総門
勅使門
北小路通り
修行道場
龍翔寺 僧堂

徳寺派
紫野高校
近衛家墓所
正受院
三玄院
山門
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法堂
瑞雲軒
玉林院
高桐院
孤篷庵
庫裏    方丈
聚光院
総見院
真珠庵
如意庵
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 大徳寺は、日本臨済禅の本流、大応・大燈・関山国師の法脈の中枢をなす一大禅刹であり、現代日本文化の源泉でもある。1335年播磨の守護赤松円心により京都北部の紫野に小庵を寄進、初代住職として妙超和尚を迎えたことから始まる。南北朝の時代後醍醐天皇の厚い帰依をうけ、南北両朝の勅願所となり発展する.。足利幕府の時代になると次第に勢力を失い、応仁の乱では大徳寺そのものも灰燼に帰してしまう。その後、一休禅師に帰依していた堺の商人の力によって、再建再び以前の姿に近づく.戦国時代、古渓和尚は豊臣秀吉の信望厚く、千利休や秀吉の結びつきから当時の戦国大名は競って大徳寺の参徒となり頭塔を建立し、茶道に精進した。この時代利休居士による山門工事における等身大の利休像事件は利休居士の切腹にまで及んでしまう。
 隆昌と衰退を繰り返してきた大徳寺の歴史も江戸時代初期、沢庵和尚の紫衣事件以後時代の流れの中に沈滞し、明治を迎えることとなる。だだ寛永13年国師の三百年遠忌を期して欠けていた伽藍も大いに整備されほぼ今日の姿になった。
 明治の廃仏毀釈、第二次世界大戦等困難な時代の中、日本経済の発展と共に本坊や塔頭とも整備されつつある。

  
それぞれ歴史と偉容を誇る塔頭寺院団 

  徳禅寺  開山は大徳寺第一世都徹翁和尚 足利義詮ら帰依
  龍翔寺  本派専門道場
  如意庵  当山第七世言外和尚の塔所 特例別格地
  真殊庵  一休和尚が開山
  養徳院  足利義詮が開基
  龍源院  畠山義元、大友義長らが開基 南派の本院
  大仙院  北派の本庵、方丈は国宝、枯山水庭園
  興臨院  畠山義総が開基
  瑞峯院  大友宗麟が開基 十字架の庭園
  聚光院  三千家の菩提寺 千利休居士の墓 三好長慶の墓所
  総見院  豊臣秀吉が信長のために創建 開祖は古渓和尚
  黄梅院  墓所は毛利元就はじめ毛利家家臣団が多い
  三玄院  石田三成・浅野幸長らが創建
  正受院  重文金剛経一帖を現存 伊勢の関氏が創建
  大慈院  大友宗麟の女見性院らが創建
  高桐院  細川家の菩提所 ガラシャ夫人の墓
  玉林院  山中鹿之助の菩提所
  大光院  豊臣秀長の墓所 以後藤堂家によって援助
  龍光院  黒田長政の墓所 春屋宗園が開祖
  芳春院  前田利家夫人やその子らによって創建
  孤篷庵  小堀遠州が開基
  龍泉庵  龍泉派の本庵 関東や九州に末寺が多い 祐泉寺も入る
  来光寺  門外塔頭 高桐院末
  雲林院  門外塔頭 淳和天皇の離宮 大徳寺の前身の地
龍光院
徳禅寺
養徳院
大徳寺山門(金毛閣)
    大徳寺山内図