伊豆周辺の後北条の城
蒲原城跡

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(北条幻庵一族系図、蒲原城主北条新三郎、上杉景虎、戦国後期の中央大名の動静等の項目あります)

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 蒲原城の築城は室町前期頃で、今川氏が駿河守護として入国した後、その一族によって築城された。
 文献上は特定の城主はなく、戦乱の折、城番がおかれた。永禄12年北条新三郎氏信(幻庵の子、氏康の従兄弟)の時大改築される。桶狭間の戦いで、今川氏が衰退したことで武田信玄に対抗するため今川氏真の要請をうけた氏康は新三郎を城番として入れる。永禄12年12月6日、武田軍の大軍の侵攻を受け新三郎とその弟・箱根少将長順、狩野・清水氏等7 00人が戦死したといわれる。戦死した氏信が身につけていた甲冑は、今でも小田原城天守閣で見ることができる。
 その後氏信によって創建された祐泉寺(三島市)に埋葬される。戒名は三光院殿孝誉良伝大居士。
 武田氏・徳川氏と引き継がれるが、家康の関東入府に従い廃城となる。
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興国寺城跡
 興国寺城は、沼津市の西、根方街道沿いの根古屋にある。この城は戦国時代関東一円を支配した後北条氏の祖である伊勢新九朗長氏(北条早雲)の旗揚げ城として有名である。
 早雲は、駿河守護今川義忠が急死する際、妹の北川殿(竜王丸・後の氏親の母)を助け、分裂状態であった今川氏をまとめ、相続争いに終止符をうつ。その功績を認められ、1488年富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となる。
 その後、伊豆の堀越公方足利茶々丸を討って伊豆を平定し、戦国大名として歩みだす。
この城は、戦国大名の争いの中、今川・後北条・武田・徳川氏などの勢力下となる。慶長12年(1607年)に城主の経営責任を問われより徳川家康より廃城とされる。
長浜城跡
 長浜城跡は沼津市の海側の最南端にある
三津の西側に位置する。近くには三津シーパラダイスなど海に関する施設がならんでいる。
 この城郭は、戦国時代関東一円を支配した後北条の水軍の根拠地、重須湊を守るための城と考えられている。
 今川義元亡き後、駿河に侵攻してきた武田氏に対して、伊豆の水軍を組織してその脅威に備えた。特に勝頼の伊豆侵入に際しては、城の整備・拡張につとめ、以後後北条の関東支配にても水軍の重要な基地として栄えた。その後、天正7年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めにより、韮山開城と共に廃城となったと考えられる。
 昭和60年沼津市の発掘調査により、小規模ながら城郭形式は、直線の連郭式で、後北条の城形式の典型を見ることができる。
韮山城跡
 韮山城は役場の南東にある県立韮山高校の裏山に位置する。
 伊勢新九朗長氏(北条早雲)は堀越公方の内紛に乗じ足利茶々丸を滅ぼし、韮山城を居城として、88才で没するまでここに住んでいた。北条氏の本拠地が小田原に移った後も伊豆の中心の城として、重きをなしていた。
 秀吉の小田原攻めに際し、韮山籠城は名だたく、城主の北条氏規は4千の城兵で4万以上の秀吉軍と戦い、小田原本城落城まで戦いぬきました。
 慶長6年(1601年)に家康の家臣であった城主内藤信成が静岡に移ったため、廃城となる。
山中城跡
 山中城は三島市の東、箱根山麓の中腹に位置し、国道1号線上にある。
 この城は、小田原に本拠地をもつ後北条の城としては極めて軍事的色彩の強い、国境警備の城である。築城の年代は定かでないが、永禄12年、武田の「信玄書状写」に山中城・韮山城の攻撃が記されていることから、この年代であろう。真田氏の名胡桃城をめぐる抗争に端を発し、豊臣秀吉との確執が表面化するようになり、その城の大修築がなされる。
 天正18年、7万余の圧倒的な豊臣軍前に、城主松田氏以下4千人の北条軍は半日で壊滅し、以後廃城となる。
小田原城
 小田原城の築城は大森氏が小田原地方に進出した15世紀始め頃といわれている。1495年北条二代藩主氏綱が小田原に居城を構える頃から、城の整備・拡張が図られ、以後小田原北条氏の中心拠点となる。戦国末期には城の規模は最大になり、日本の城郭の中では一番の大きさを誇った。
 江戸時代には徳川氏が支配することになり、幕末まで幕藩体制を支える譜代大名の重要な城となった。

↓韮山城跡

韮山城跡の一番高い場所(天守閣跡)から見た田方平野と沼津の海岸(駿河湾)付近から続く山々