住職雑感 10
H16,12/5 樹齢400年(推定)のえのきが根元から半分折れる
祐泉寺創建当時(西暦1567年)からあったと伝えられる境内の境界を示すえのきの大木が5本あった。いろいろな動植物(昆虫やいろいろな鳥類など)が関わっていて、子供たちの虫取りや木登りのかっこうな遊び場所であった。ところが30年前頃から近隣の方から枝の侵入、落ち葉の害等の苦情が目立つようになり1本を除いて20〜30mの高さから5m前後まで切らざるをえなくなりました。ところが10数年たつ頃から樹木が弱り始めこの数年前までに完全に根元腐りなくなってしまいました。
残った1本は貸した土地で、隣家の朝日氏が大切に残していたものでしたが5日の午前3時頃、台風並に発達した低気圧の強風のため根元から半分に裂けてしまいました。伊豆地方を襲った台風22号の強風のため上部の枝が一部裂けてしまったことがあり、その影響が今回もろにでたようです。ただその裂けた根元の中では一部空洞もあるようで2本の太い枝をささえきれなかったのではないでしょうか。
その樹木は30m位はあり、街中では数少ない大木で、いろいろな動植物が生活してきた場所であります。朝日氏と相談して半分でも生かせれるように伐採業者にお願いしました。ただ今までの経験から残った樹木も10数年すると腐ってだめになってしまうのではないかと思われました。
強風の余波が残る中での困難な作業
右側の枝は駐車場の屋根で支えられている状態
(左半分は何とか残したい樹木)
影の下から根元まで裂けた大木
12/7 三島市仏教会成道会(禅宗寺院主催)が終わりホットと一息
三島市仏教会では各役員が2年交代で運営しています。年2回、4月の降誕会・12月の成道会と各講演会を各宗派ごと交代で実施している。今回は禅宗系が当番なので、会場、講師依頼など中心的な役割をした。6月より準備を始めましたので、講師も広い範囲から選択することができました。前々日は猛烈な低気圧の強風のため、会場寺院(心経寺)も落ち葉の量が多く、昨日の9時に運営責任者として会場準備に行ったときでも副住職が庭の清掃で動き回っていました。
成道会の講演の部では茨城県新治郡霞ヶ浦町で菩提禅堂を運営し、特に一般在家の方に禅の指導をされている形山睡峰和尚のお話を聞きました。演題は『成道会にちなんで「生き方死に方」』でお釈迦様の教えや現代の禅の生かし方をわかりやすく説明されていました。独身で禅一筋修行、布教されてきただけになかなか力強い話し振りで、ひさしぶりによい講師にめぐり合えたという感じでした。
形山睡峰和尚
心経寺にての講演会の部
12/11日、大型クレ−ン車にて右側の太い枝と残った枝の伐採作業にて
1/3まで小さくなったえのきの大木
h17,6/18 曹源寺(伊豆の国市小坂)看護の藤居自安氏が逝去す
平成17年6月14日午前12時頃突然曹源寺檀家の水口薫氏より電話あり。自安氏が救急車で順天堂静岡病院(伊豆の国市)に搬送され、隣家の渡辺氏が付き添ってくれたとの事。12時40分頃渡辺氏から「自宅に帰ったが、自安氏が意識不明の状態であった」等の一報で事の重大さが感じられた。1時40分に病院に着いたが1時46分急性大動脈解離で死亡と診断されたが、かたちの上で臨終を看取ることができた。後で聞いたところ自分で電話をかけたが、救急車が到着したときには意識不明の状態であってようである。本人が平成9年に日本大学歯学部に献体を申し込んであり、万が一のときは手続きしてほしいと頼まれていたことを思い出し、深夜であったが連絡先への対応に追われた。曹源寺檀家は5件しかなかったが、その日のうちに檀家の方4人と一番いろんな面で迷惑をかけた隣家の渡辺氏が境内、庫裏内の掃除にきてくれて、夕方まで手伝っていただきました。通夜、葬儀、出棺(日本大学献体の搬送車)の日程を一番の友人である田種寺和尚(三島市)と自安氏の弟康二郎氏(広島県)と相談し、次のように密葬で行った。
1、通夜 6月15日(水)6時---曹源寺書院
2、葬儀 6月16日(木)10時--同上
出棺 同 11時--日大歯学部の搬送者にて東京へ
維那 田種和尚 導師 祐泉和尚
参列者 藤居康二郎氏(自安氏弟)と長男の康明氏
檀家5名とその奥さん--10名
小坂地区区長始め町内10名など
藤居自安氏は同じ東大出身の故中川宗淵老師の直弟子として龍泉寺専門道場を始めとして、米国、和歌山など各地で修業し、龍泉寺の故鈴木宗忠老師の進めもあって、昭和40年代一緒に修行した縁で昭和57年私の兼務している曹源寺に看護として入山した。座禅中心の生活の中で時には常人には理解できない行動も見られ、誤解?をうけることも多々見受けられることもあり、また破戒僧の一面もみせ和尚の中には避ける傾向もあったが禅宗坊主として時代を超えた姿を見せるときもあった。とくに精神的に悩んでいる人たちの中には彼の一言や曹源寺の自然環境から救われたという人もいて、自安氏のすごさを感じられたこともあった。死に際しては一番の援助者で友人である田種寺和尚と偶然に前日話す機会もあり、突然死でありながら禅宗坊主として大往生ではなかったのではないだろうか。戒名は大徳寺派の僧籍もあることから自安宗健首座禅士とつけた。遺骨として帰ってくるのは1〜3年先だそうであるが、歴代の和尚の横に墓を作る予定で準備している。
総代の小野氏の奥様で友人でもある県会議員の登志子さんよりいただいた弔辞を代読
小坂の人々に見送られながら献体の車にのって出棺(東京の日大へ)
康二郎氏長男
撮影