平成20年11月11日、大徳寺派の呑海寺の晋山式があり、宝泉寺(風祭)で他の寺院さんとの待ち合わせの中で当寺院の和尚より耳寄りな情報を聞くことができました。神奈川県立歴史博物館にて『戦国大名北条氏とその文書(文書が教えてくれるさまざまなこと)』の特別展があり宝泉寺より北条幻庵の朱印状など出品したようで、またその特別展の関係文書も見せてもらいました。その特別展でのパンフレットからきになる古文書群があり、後日上記の博物館ホ-ムペ-ジで公開しているなかに江梨鈴木家文書類を発見しました。
 なぜ気になった文書かというと昨年兼務している龍泉寺の創立前後(西暦1575年~1580年頃)の地域の社会情勢を知る手がかりを調べる中で、伊豆西海岸の戸田村井田の高田文書なるものがあり不審船(当時は武田家か)の情報や追討などにかかわる文書があり、その中で江梨地区にも合い図るすることなどが書かれていたのです。その文書の5年ほど前,後北条が伊豆西海岸領主の江梨鈴木家にあてた文書ということでさらに当時の社会情勢が知りえるからです。この文書より龍泉寺創立時の時代的背景がより明確となってくるのではないでしょうか。
 この文書の活字のみを使うことで博物館の学芸員に連絡したところ写真画像でないもので許可の必要はないとのことで早速使わせていただくことになった次第です。①と②の古文書の画像はHPで公開されています。

①元亀4年(1573年)7月16日 北条家法度
 江梨鈴木文書(現沼津市江梨)     発給者 北条氏政   受給者 鈴木丹後守・江梨                                                               ※1570年10月北条氏康死亡       ※1573年4月武田信玄死亡
          法度           江梨五ケ村
一、当浦出船之時、便船ノ人、堅令停止候、無相違者ハ、以虎印可被仰出間、能々相改、可乗之事
一、他国船於着岸者、不撰大小、何船成共、人数荷物等相改押置、則刻可及注進、無其儀自脇聞届候ハゝ、
   代官・名主可処罪科事、
一、万乙号商売、敵地ヘ罷越者有之者、則可致披露、兼面可被制事
     以上、
  右条々、厳密ニ可申付、若妾申付候者、領主之可処越度、仍後日状如件
         発酉
                                   奉之
                           石巻左馬充
   七月十六日 (虎朱印)
           (繁定)
      鈴木丹後殿
 上記文書の要約

・当内浦から船を出す時は違反なきように許可を取ること。
・他国の船が漂着したら大きさに関係なく荷物を改め即刻注進すること、届け出無き時は代官、名主を処分する。
・商売で敵地に行くものは申し出ること。
  
②天正2年(1574年)7月10日 北条家朱印状
  江梨鈴木家文書  
   発給者 北条氏政  受給者 鈴木丹後・江梨       
   『 印 自甲州到来之船手判也------   
    右手判、駿州船-------以降省略    神奈川県立歴史博物館HP参照』

 文書要約
 『印 自甲州到来之船手判也』の手形を持つものは駿河船で、甲州から来たものである。印を持っているが、不審な様子があればがあれば船を差し押さえ、注進すること。今から駿河浦からの船で来るものは上記の手形を持つこと。
        
神奈川県立歴史博物館ホ-ムペ-ジより参照

③天正8年(1580年)8月3日  北条家朱印状 高田文書(戸田村井田---現在沼津市戸田)  
敵船相動付而者、見出次第狼煙を可揚、一ケ所之狼煙を見届、諸浦一同狼煙を可揚、のろしを見届候者、隣単之者ハ相互ニ可揚之、致見除候者可為重科候、猶以のろし次第、味方舟乗出、
敵を可討留候間、少も不可油断候、仍如件
   八月三日  印  (天正八年)
       
               (印分「禄寿応隠」)
    (伊豆国田方郡)
追而、江梨相談可致之、
           (田方郡)
          井田 さなき山
       静岡県史 資料編8 中世四(p547)参照
上記の原文の訳は次の通りになるだろう

『敵船を発見したものはすぐに狼煙をあげること。一ケ所の狼煙を見届けたなら諸浦一同狼煙をあげるべし。のろしを見た者は隣に伝えるように揚げること。見届けを怠ったものは重罪に科す。猶、のろし次第味方の船を出し、敵を討ち留まること。少しも油断なきよう。
追伸 江梨地区にも相談あること    井田 さなき山』

 ※名前はないが文書差出人は井田地区の高田氏であろう

 駿河領有した武田信玄が西暦1573年に死亡し、後を継いだ武田勝頼が1575年、織田・徳川連合軍との戦い(長篠の戦い)で敗戦した頃の時代で上記文書①と②が発給されている。1569年北条氏康が頭首の時代武田信玄によって蒲原城が落城し、祐泉寺を創建した北条新三郎(北条幻庵の後継者)が戦死した。駿河侵攻前までは武田家は同盟関係にあったがこの侵攻によって敵対関係になるのであるが②の手形の文書(頭首-北条氏政)ではまた同盟関係に戻っている。ところが1578年上杉謙信の突然の死により後継者争い中で北条と武田はまた敵対関係になりそしてその年、武田勝頼は伊豆侵攻をしてくるのである。その2年後に③の伊豆戸田の高田家が上記の朱印状が発給するである。 従って当時小田原城(北条政治の中心地)→韮山城(伊豆の中心地)→長浜城(伊豆水軍の根拠地)→各伊豆の代官→名主等の命令系統が綿密に整備していたことが想像される。
 この武田家の伊豆侵攻に対し、長浜城の整備、拡充にさいして関係して創建されたのが兼務している龍泉寺ではないかと考えている。さらに祐泉寺と龍泉寺の開山はともに早雲寺第八世梅隠宗香禅師で北条新三郎なきあと経済的に支援したであろう北条幻庵は龍泉寺の伊豆長岡地区からは近い修善寺大平に広大な領地を保有していることなどからこと地域の軍事的整備にも関係しているとおもわれるからである。
 

 後北条より西伊豆にあてた
     法度・朱印状よりわかること

駿河湾

幻庵の屋敷

修善寺大平地区
北条幻庵の所領

井田

戦国末期の北条水軍の長浜城の
       整備拡充と龍泉寺建立の関係を探る

龍泉寺

長浜城

江梨