「駿河国駿東郡泉頭図」
至三島宿
柿田川
東海道
※『駿國雑志』四 図録別刷(吉見書店)より
                  写真掲載承諾済み
清水町史 通史編上巻より接写
狩野川
富士山
(『駿國雑志』天保14年 阿部正信著)
H15,2,17発行

戦国時代末期の駿河国泉頭城に
  第六天があった可能性は?

江戸時代の駿河国駿東郡清水村の絵図より

    

 過日、清水町役場から贈呈された清水町史上巻を見ていましたら、見出しの2ページ目に江戸時代の清水村の絵図『駿河国駿東郡泉頭図』がでていました。何気なく見ていたら絵図の中に第六天と北条家の二文字が出ていて大変驚きました。江戸時代になると各地に第六天が信仰されるようになり、いろいろな場所から第六天が存在していたことがわかります。しかし戦国時代末期に北条家が第六天を信仰していた具体的な史料があまり見られない中でこの絵図の貴重さは大変特筆されるものではないかと思います。
 絵図の中で泉頭城主北条夛目周防守は永禄13年(1569年)に蒲原城主北条新三郎(祐泉寺開基)に従い同年12月6日に、武田信玄との戦いで蒲原城にて新三郎と共に戦死している。この時代は三代目氏康で、小田原北条家の全盛時代であり、第六天の北条家への広がりも随所にみられたことが想像される。従って隣国の武田家から第六天信仰が伝わる以外に、直接織田信長から影響されて伝わった可能性も否定できない。
 この駿河国駿東郡泉頭図について清水町教育委員会に問い合わせたところ文化係(町史担当)の長島 聡氏より絵図にある泉頭城の発掘調査報告書(昭和58年)と夛目周防守の時代の清水町史資料編(中世)のコピーを送っていただきました。


泉頭城遺跡
 柿田川の源流に位置する泉頭城は豊かな湧水と自然のよく保たれた景観地にあり、中世
の戦国期16世紀に北条氏によって築城された城である。城郭とされるところは、北は国道1号線北側から南は堂庭小字大宿まで及び、南北500m、東西400mの広い面積をしめている。北条家家臣夛目周防守の時代に武田氏(勝頼)の伊豆侵攻に対して最大に拡張される。1590年豊臣秀吉の小田原征伐が開始されると、北条氏は山中城と韮山城の線に後退して、本城は放棄された。
 1615年12月、駿府記、紀公言行録等よれば、徳川家康が泉頭城の古跡が景勝の地であるため、隠居所の城とすべく縄張りを命じたが、翌年4月家康の死によって中止されたという。

第六天曲輪
 第六天曲輪は本曲輪南に三ノ洞大堀と大きく隔てて構築され、東西80m、南北55mであり、東と南を空掘で囲まれた不整形な形を呈し、南西部分は住宅となり本来の景観は失われている。この曲輪に続く南曲輪とは土橋で通じていたが、今は住宅で不明確になっている。従ってこの曲輪に第六天が祀っていたとおもわれるが、現在は不明になっている。

夛目周防守
 夛目(多目または多米とも書く)は伊勢新九郎長氏従者7人の内にあり、桓武平氏貞盛流で三河国八名郡多米郷を領していたので、多米氏を称したとする。多米権兵衛射元益は長氏と同属であった関係で、長氏の伯父伊勢貞職の養子となり以後、長氏と行動を共にしつつ、小田原奪取の時は先陣をつとめたという(北条五代記)。元益の子周防守元興は永禄12年に泉頭城の城将となるが、永禄13年12月6日北条新三郎に従い、蒲原城で新三郎と共に討ち死にしている。この多米周防守の墓は清水町玉川の福泉寺(臨済宗妙心寺派)にあり、この寺の開基でもある。いずれにしても泉頭城の城将は北条家の有力な家臣と思われるが、どのくらい兵力をもっていたかは不明である。

第六天はいつ頃から後北条に広まっていったか

 全国編の中でも書いてありますが戦国時代に織田信長が自分自身を『天魔王信長』と自称いていて文書などに署名していいます。その後織田家に占領された武田家が護符として第六天を信仰して、さらに同盟関係にあった北条氏へと広まっていった事を藤縄勝祐氏(横浜在住)が『消えた第六天』で述べています。
 祐泉寺境内にある第六天の一番古い資料の奉納板での表記は享保10年(1725年)であるが江戸時代の郷土史『新編相模国風土記(3000社)』、『新編武蔵風土記(700社』、『伊豆志稿(50社)』の中に公式的でも4000社近い社が存在していたことが表記されている。この中には祐泉寺境内の第六天など伊豆志稿に出ていませんものも多数あり江戸時代にどのくらい存在したかは全く不明である。この場所はもともと小田原北条氏の旧領土であることから農民になって生活していった藩士の存在が第六天の信仰の広がりと大変深い関係が予想される。ただ武田家が織田・徳川家によって滅ぶのは西暦1582年頃でありその8年後の秀吉の小田原征伐で小田原北条家も滅びてしまうのであり、この時代での第六天の後北条への信仰の広まりはどうだったのでしょうか?。
 ところが上記に書いてある清水町の泉頭城の江戸時代古地図と清水町役場の発掘調査資料の存在がわかり、もしかしたら戦国末期城主多目周防守時代までさかのぼることができるのではないかと考えました。多目氏は蒲原城主北条新三郎と一緒に武田信玄との戦い(1569年)で戦死しており、またその北条新三郎は1567年に早雲寺第八世梅隠宗香禅師を招いて祐泉寺を創建しています。従って祐泉寺境内にある第六天は創建当時からあった可能性もでてきます。ということは初代北条早雲が沼津興国寺城主になる前に長く足利幕府の役人として京都におり、そのころから第六天を信仰していたことも想像できてしまう。戦国時代の幕開けを告げ、古い秩序を破壊した北条早雲こそ魔界の王第六天を信仰していても不思議はないだろうか。

柿田川公園内にある見取り図と案内版

北条家夛目周防守城蹟