龍泉寺本堂内陣にあった元禄時代の
  古文書の内容が判明  
h22,3,8

 昨年本堂の天井を全面的に張り替えることになり、仏壇の本尊・位牌など全て移動したところ右横の奥に造った社の中から2枚の古文書がでてきた。元禄4年(西暦1691年)と弘化2年(1845年)の龍泉寺財産目録のような文書で、特に元禄期の古文書は寺社奉行に届け出た文書であることなど寺の歴史を調べるのに大事な資料であると思い表装することにした。ただ後ろ半分の内容が判読できず檀家で数年前市役所を退職された内田久氏の紹介で伊豆の国市教育委員会社会教育課の工藤氏に依頼し、下記の古文書の原文と現代語訳と二枚に分けて表記していただきました。
 早雲寺末寺が本寺の早雲寺を始めとして再興できるのは三代将軍徳川家光以降でこの古文書の内容からも小田原北条氏の初祖北条早雲が領有していた伊豆・相模の国の早雲寺末寺の復興の実態を調査していた様子がうかがえる。この古文書の日付の元禄四年(西暦1691年)はかって江戸時代初期小田原城主を改易された大久保忠隣以降再び大久保家一族が小田原城主として戻ってきた年で、その城主として下総佐倉から入封した大久保忠朝はときの老中職であった。またこの古文書と同じ場所で発見した判読できる寺の覚書(弘化2年--西暦1845年)にて当初の龍泉寺本尊が地蔵菩薩から観音菩薩に変わっていることも判明した。
 後半の部分からは住職の経営の基本やこれから住職になるものへの心構えが書いてあるが、支配者や監督者に対しても注意して臨む態度が表現されていて現代の寺院管理にも通じる内容である感じがした。

     現代語訳-二

もし御公儀(幕府)、小田原城主、その他地頭(領主)、本山早雲寺などよりお尋ねがあった場合には、このように書き上げること。
畑や山林の内に高があっても、その時の住職が田畑を購入したり、山林を売却したりした分については、書き上げるにおよばない。時の住職の不徳によって買い受けたり、あるいは質入れしたり売り払ったなどあった場合には、たとえ本寺(早雲寺)に対しても、その主旨を報告してはならない。
開山当初より所有の田畑・山林は、質入れ・売却してはならない。
なお、時の住職に借財などができたり、あるいは寺の修復などに使うために質入れ・売却することがあっても、自分勝手な取計らいをしてはならない。
全て旦檀(家カ)へ相談の上で取りはからうように。

右の通り下書きを認めておくものである。以上。

                   現住
                     太翁義明
      元禄四年
        未四月
    現代語訳 一


元禄四年(一六九一)末の四月、小田原城主より早雲寺の末寺についてお尋ねがあったので、左の通り下書を書きあげた。

  本寺 相模国湯本村早雲寺
      末山豆州君沢郡長瀬村
      禅宗 東海派 松洞山龍泉寺

一 本尊石仏地蔵大菩薩三ケ(尺カ)五寸、差添作者不詳
    開山 大雲良公座主禅師  年暦不詳
    中興 根室本公座主禅師 寛文三年(一六六三)卯年
    現在の住職まで六代。住職のほかに他山の出家がいます
一 寺内に薬師堂あり、九尺四角(方カ)
一 寺内は東西二十一間 南北八間
一 中田二七歩あり
一 下々畑四畝十六歩あり    御年貢地
       石高は合わせて二斗八升九合
一 寺内二反歩余り  御除地(年貢のかからない土地)
一 山林 東西七十五間
       南北六拾間   但し東西は百姓持林
このたびのお尋ねについては、右の通り相違ございません。以上

           豆州君沢郡長瀬村
     元禄四年       龍泉寺
        末四月         義明首座
                  旦那善兵衛
                  同  由左衛門
                  同  左兵衛
                  名主与次右衛門

     寺社奉行様

上記の古文書と同じ場所から発見された弘化2年(西暦1845年)の寺の覚書  本尊が観音菩薩に変わっている

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