田形・三島方面が一望にできる戦略的に重要な北条氏の城
定員500名の会場が満席になったほど盛況
韮山城本丸があった大変見晴らしの良い場所
韮山時代劇場(伊豆の国市):12時の会場前に並んだ参加者
韮山城の案内板より:秀吉の小田原征伐時にも氏規が最後まで持ち超えた城郭の堅固さがわかる山城---なんとなく函館五稜郭に似ている
当日の資料より
三国同盟崩壊と韮山城をめぐる攻防
北条早雲(伊勢宗瑞)没後500年を迎えて伊豆の国市が数年前から準備してきた韮山城をめぐる文化財シンポジウムも3回目となりました。平成26年は韮山城を多方面からとらえる講演、平成29年は韮山城落城(1590年)をめぐる攻防戦の講演でした。今回は上記資料にもあるように武田信玄駿河・伊豆侵攻(1569年の世界)における武田信玄の韮山城の攻防が中心であるが合わせて周辺の城々がテーマで私の三島の寺(祐泉寺:早雲寺末)を創建した蒲原城主北条新三郎も関係しているので出席しました。1569年は武田信玄・上杉謙信・北条氏康・織田信長・徳川家康が駿河をめぐる攻防の群雄割拠の時代で戦国時代を象徴する事象が随所に出てくることを講師の武井英文(東北学院大)が指摘していました。蒲原城落城(1569年12月)後武田氏が駿河を領有することによって北条・上杉・徳川・織田の今後の展開が大きく変わってくることが明白になった節目であろう。
下記に配布された資料の中に望月保宏氏(静岡古城研究会)が取りあげた蒲原城落城の知らせを武田信玄から真田幸隆にあてた書状が紹介されていました
永禄12年12月6日(1569年) 真田幸隆宛て武田信玄書状写し(『静』4-12号)
急度染一筆、今六日蒲原之根小屋放火処、在城之衆悉出合之条、遂一戦得勝利、
為始城主北条新三郎、清水、狩野介不残討取、即時城乗取候、誠前代未聞之仕合ニ候・・・