昭和28年の市ケ原廃寺の発掘調査まではこの寺は伊豆国分尼寺として全国的に知られていたのですが、日大文理学部教授の軽部慈恩の調査によって奈良時代以前の白鳳期の寺院跡であることがわかりました。三島市誌の編纂の中心であった軽部教授(日大文理学部)は古代史とくに百済文化研究では日本の中では突出した学者であった。軽部氏は戦前20年間百済の故地・光州付近を中心として居住、教鞭をとりながら百済の歴史研究にあったた。戦後奥さんの生誕地の三島一町田に住居を構え古代史の研究をつづけた。
 昭和45年に亡くなったが、その中で元奈良国立博物館長の石田茂氏は追悼の中で上記の市ケ原廃寺(代用国分寺・大興寺)と伊豆国分寺の発掘等は最も特筆すべきものと言っていた。
 この市ケ原廃寺は塔心礎と瓦より白鳳期(大化の改新~平城京)の寺院の想定の下にて金堂跡を発掘し、それが奈良薬師寺伽藍配置であることが確かめられた。
            三島市誌増補参照
 白鳳期は大和朝廷が大陸文化を取り入れるために百済とは密接な関係にあり相互の交流がさかんで渡来人が多く日本にくる時代であった。白鳳期、奈良から離れた伊豆三島に市ケ原廃寺(大興寺)や塔の森廃寺(本興寺)などの巨大寺院群や伊豆国の高度な造船技術は渡来人(百済?)の影響もあったのではないか。百済研究の第一人者の軽部博士がこの三島に居住したのも何かの縁かもしれません。
                    
※日本文徳天皇録より伊豆国の大興寺が西暦855年に定額寺(代用国分尼寺)に預けられた記述があるが上記の市ケ原廃寺であろう。

      
          平安時代の三島の情景


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伊豆国分尼寺と百済研究の
   第一人者の軽部博士 
r5,1,12

白鳳期(西暦645年~710年)の鐙瓦

奈良時代の鐙(あぶみ)瓦

西塔の塔心礎(大社町郵便局付近ので発見)