先月檀家の西島達也氏から「印度學仏教學研究」第72巻第2号の本をいただきました。その中で英語と日本語の両方で書かれた『丈部富賀満の消息』(伊豆大興寺の創設)の小論文がありました。わたしは三島市誌にて大興寺の創建に関わった丈部富賀満が文徳実録に一部でている情報しか知りませんでした。西島氏はいろいろな資料から丈部氏の情報提示してありました。要点だけ下記にまとめてみました。

丈部富賀満の名の公式資料は文徳実録のみ
 「甲戊以伊豆国大興寺預於定額為海印寺別院 大興寺者。孝子大(丈)武富賀満為国家所建立
丈部氏は地方豪族であるが往古より宮廷の警護・雑使に任じまた、漁業の傍ら蝦夷、朝鮮半島の動向を収集、格式は高かった。
・在任地は伊豆,駿河、甲斐、安房、越前、讃岐などがあるが東国に多い
・上記の場所の木簡より丈部氏と阿部氏との関係、職分が明示されて、政権直属の豪族
阿部氏は蘇我氏、物部氏と並ぶ政権の中枢で、特に寺院建築では専門知識と技術を持っており、丈部氏も同様な技術をもっていた。

 以上のことから、丈部富賀満が造寺筋であり主従である阿部氏の指示により在地豪族向けに鎮護氏寺設置の労を執り、伊豆大興寺もその一つであろう.
当時大和朝廷は白村江の戦いにて敗退し、朝鮮半島の進出をあきらめ国内の中央集権化に向けていた。

4~6世紀の朝鮮半島

大興寺の設立・維持管理に
        貢献した丈部富賀満 
r6,11,19


朝鮮半島へ大和朝廷進出

645年大化の改新
 中大兄皇子が蘇我氏を滅亡
660年新羅・唐連合軍が百済を滅亡
 百済から日本に亡命者多し
663年白村江の戦
 唐と新羅の連合軍と大和朝廷と滅亡した百済の連合軍の戦い(日本軍は中大兄皇子後の天智天皇が指揮
668年新羅朝鮮半島統一
 高句麗を滅ぼし、唐の勢力を大陸に押し戻す
・668年天智天皇即位
国内政治に重点を起き都を今江大津宮に遷都
・672年壬申の乱
天智天皇の弟・大海人皇子と息子・大友皇子の後継者争い
673年天武天皇即位
天皇中心の中央政権を樹立
・710年平城京遷都

大和朝廷

新羅

高句麗

山田寺(桜井市)の軒丸瓦(奈良国立博物館蔵)
 
白鳳期:蘇我氏が640年頃建立した寺でこの瓦は山田式軒丸瓦として東国に広まった

大興寺の軒丸瓦(祐泉寺蔵)
 白鳳期(645年~710年)頃作成

 

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