講堂
大興寺跡

今の祐泉寺の場所

(代用伊豆国分尼寺・市ケ原廃寺)

今の厳兵衛川?

奈良・平安時代の三島の絵地図

白鳳期に共通して見られる薬師寺式伽藍配置
 (赤枠の中)
東僧坊
西僧坊
北口
受付
文殊堂
大宝殿
東院堂
講堂
金堂
金堂
中門
西塔
東塔
現在の奈良薬師寺全景略図
南門
中門

南大門
奈良薬師寺東塔
730年創建当時の建物
大興寺跡
薬師寺式伽藍配置予想図
講堂?
金堂
東塔
 ?
西塔
法華寺
祐泉寺
旧国道1号線
伊豆箱根鉄道
 田町駅
郵便局
市役所
至裾野
至三島駅
三島大社
※金堂と西塔は伽藍の遺構発見済
  三島市誌上巻参照
 国分寺は奈良時代に聖武天皇の勅願によって設置された国立寺院であり、僧寺と尼寺のニ寺制をとっていた。僧寺の正式名称を『金光明四天王護国之寺』、尼寺を『法華滅罪之寺』と定めたのは天平13年(741年)の詔勅である。数年来の凶作と疫病の流行にに悩まされてたので神仏の加護と、さらには九州での反乱の平定を祈願して聖武天皇が国分寺造営の勅命を全国の国府に発した。その詔には寺の名前に関わる『法華経』や『金光明最勝王経』等の書写や寺院の定員、維持するための生活費(水田)など経営の細部まで記してある。ところが大化の改新(645年)の中央集権的律令制度を建設に当たって諸国に国司を派遣する中で寺院も建立しており、国分寺の前身とみられるものがある。
 大興寺は白鳳時代(奈良時代以前西暦645年〜710年)、三島大社に関係の深い豪族、丈部富賀満の私寺として建立されたと伝えられている。この寺は後、平安時代(836年)に伊豆国分尼寺焼失後,代用国分尼寺となったが、その規模は祐泉寺の南にある法華寺から三島大社前の旧国道1号線までを境内とした大寺院で東西の塔、南北にわたる中門,金堂、講堂を持つ薬師寺形式の建築物であった。現存する資料は昭和7年に当寺院西側の下田街道の橋の工事で発見された塔心礎と昭和28年祐泉寺本堂裏から出土した鐙瓦と宇瓦数点があり三島市の文化財第一号となっており玄関の中に保管してある。特に塔心礎については柱の太さが1m余りあって、巨大建築物があったことが想像されよう。

                    

小学校郷土読本「みしま」より:(三島市教育委員会学校教育課資料掲載許可済)