第六尊天(町内編)
当境内にある第六天は大社町一区(旧市ケ原)の氏神として地域の方々に信仰されてきました。最近になってこの由来を知りたい、あるいはご神体が神ではなく仏ではないか等の声が上がってきました。地域の古老等にその由来を聞こうと尋ね歩きましたが、ほとんどわかりませんでした。そこで現存する数少ない資料をもとに現住職の私が調べた結果を述べてみたい。

令和元年の第六天祭り

常夜燈のもとの位置が判明

h29,3,22

2、木簡からの考察
   木簡の表裏では主本体第六天王から第六天神となり,明治15年では 第六尊天諸大眷属と変化しており、さらに興味深いのは両側の脇本体が稲荷大神と八幡宮であったのが嘉永の代になると秋葉山大権現と金毘羅大権現に大きく変わってきたことである。主本体の第六天は仏法守護の仏であり、脇本体の秋葉山大権現(静岡県西部)は火の神様、金毘羅大権現(四国)は海の神様ということであるが,神仏一体の信仰が当時の人達の普通の気持ちだったのであろう。さて、一番新しい木簡の裏には当時の人達の様子や本殿に関する記述が明記されている。文面の意味はだいたい下記の通りであろう。      
 『もともと本殿は今の位置より約五間(9m)北の隅で南に面していた。日頃より市ケ原、二日町の人々に参拝されていた。両街の徳のある方々や有志による募金によって現地に移された。しかし、柱や軒、土台が腐って、いたみが激しかったので修理をして、大変立派になった。まことにめでたいことである。この文を書いた人は,福聚院(北田町)の萬拙という住職で内容的に最も信頼できる
従って、祐泉寺に住職がいなかった時期は、兼務していたと思われる。又、この世話人の一人、山本儀三郎は祐泉寺の檀家の中では一番古く,大社の門前で宿屋を営んでいたそうである。
 わずかな資料からではあるが、神仏一体なものとして第六天が江戸時代から現在に至るまで地域の人々に守られてきたいきさつが知られよう。では木簡にしか記述されていない第六天とはいかなる仏かを次ぎに述べたい。

3、第六天と仏
 仏(仏像)は大きく分けて次ぎの九種類に分けられる.
 @如来
    釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来・・・・・・
 A観音
    聖観音、千手観音、馬頭観音・・・・・
 B菩薩
    弥勒菩薩、地蔵菩薩・・・・・
 C曼荼羅
    金剛曼荼羅、仏頂尊荼羅・・・・
 D明王
    不動明王、愛染明王・・・・・
 E天
    帝釈天、毘沙門天、第六天(別名 他化自在天)・・
 F眷属
    十六羅漢,文殊八大童子・・・・
 G星宿
    北斗七星、七曜星・・・・・
 H垂迹と雑尊
    金毘羅大権現、秋葉山大権現・・・・・・

 このように第六天は天部の仲間に入ります。この仲間には他に大黒天,四天王、持国天、弁才天などよく知られているいるものが多い。第六天は別名他化自在天ともいう。
 仏教世界では、世の中には一種不思議な怪物がいて、これを魔物といっており、第六天はこの魔物が住む世界を支配している。この魔物の長が天魔王というものです。このような魔物の王も仏教では偉大な善神として武力によって仏法守護の一任を負う天尊として尊敬されている。
 既存仏教を破壊する織田信長が自らを『第六天魔王信長』としていたことも戦国時代の象徴かもしれない。

4、おわりに
 最近まで町内の神として、7月下旬の祭典には三島大社の神主に来て いただいてご祈祷していましたが、上記のことがわかり、10年前より住職が祭事をするようになりました。天部の信仰の厚かった毘沙門天の上杉謙信、第六天の織田信長は有名であり北条早雲の孫の新三郎氏信が第六天を信仰していても不思議ではないかもしれない。
 秀吉の小田原征伐で文化の中心地であった寺への影響は、きわめて強く祐泉寺もその後長く住職がいない時代が続くことになる。しかし江戸時代から現代に至るまで,三島大社門前の市ゲ原,二日町の有力な商人の庇護の元、無住の時代でも第六天への信仰と一体となり、維持されてきた。大正初期に住職になった私の祖父の時には、寺は本堂がなく、檀家も10軒余りという状態であったが、第六天の信者の庇護の下、本堂が再建することができた。従って、最近まで本堂も子供会、老人会,祭典会場など町内の集会場も兼ねた場所であった。特に第六尊天は社は小さいが、旧市内の各町内の神社の祭典と同じくらいに盛んで、私たちが子供の頃は何軒か露店が出たり、道路で映画をやったり、又本堂を利用して劇などもあった。子供達が多かった時代は絶えずこちらの庫裏まで歓声が聞こえているほど、遊び場所であり、たまり場所であった。
 現在でも町内の役員が祭事と夜の催し物(金魚すくい、ラムネ、豪華な賞品が出るビンゴゲームなど)を7月末に行っています。