「昭和・平成禅僧伝 臨済・黄檗編」より
臨済会編 長秋社発行 平成22年8月30日(第1刷発行)
※禅文化研究所作成「明治の禅匠」を原図に臨済会が加湿修図
龍沢寺専門道場師家、妙心寺第632世第19代の官長般若窟山本玄峰老師は昭和36年6月3日、96才の高齢で遷化された。幾多の荒廃せる寺院を再建し、禅風を高揚し、「白隠禅師の再来」「最後の禅僧」と呼ばれた。
老師は慶応2年和歌山県湯の峰に生まれる。生後まもなく同村の岡本家に引取られ養育される。19才の時眼病にかかり、まさに失明せんとして、四国霊場遍路の途中、雪蹊寺の太玄和尚に出会い、仏門に入る。 大正4年50才の時三島市の龍沢寺に入り、当時廃寺寸前だった寺を復興させる。昭和36年、96歳で遷化されたが三島・沼津を中心に多くの信者を生んだ。老師の名声は全国に広まり、老師の導きを受けに政財界の大物たちが馳せ参じています。中でも、太平洋戦争終結にあたって内閣総理大臣鈴木貫太郎に『耐え難きを耐え忍び難きを忍び・・・・・・』と提言したことはあまりにも有名である。戦後吉田茂、池田勇人両総理大臣など日本の政治の中枢を担う人達も老師の助言を求めて、しばしば来山していた。叡智に富み、人徳も厚く、加えて豪放磊落な人柄は多くの人々をひきつけ、強い影響を受けました。玄峰老師の人柄を示すエピソ−ドをかって妙心寺管長であった古川大航老師は次ぎのように言っています。
玄峰老師は『僧堂にはいろいろな人がくるが、まともな人間は余人に任せる。わしは世間から、あばれもの、やくざもののように見られている連中を世話する。』といっていた。以前私が修行していた時代(昭和45・6年頃)三島由紀夫の『盾の会』のメンバ−数人が数週間ほど龍沢寺に身をよせていたことがあった。
白隠禅師とメビウス(ドイツの数学者)とジョンレノン(イマジンの作曲)の関係は
今白隠と呼ばれた山本玄峰老師
白隠禅師・玄峰老師からの法系
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(向嶽寺管長)
(方広寺管長)
徳雲軒
波羅窟
松華室
死活庵
心鏡室
密多窟
般若窟