昭和七年四月下田街道道路擴築工事ノ際市 ケ原筋違橋梁下ニ埋
没セルヲ川島兼助発見諸家ノ鑑定ニ依リ心礎トシテ天下ノ稀
品ト称セラル於茲有志相謀リ尼寺趾境内ニ安置シ縁由ヲ誌ス
現住

雪厳

建設


青木浅次郎

松田廣吉 
世話人


米山正平

川島兼助
三島大社
祐泉寺
昭和6年 祐泉寺本堂再建寄付者(檀家以外の旧市ケ原特志者一部抜粋)
法華寺
市役所
東海道(旧国1号)
至沼津
至箱根
旧下田街道
至下田
300m
三島田町駅
(伊豆箱根
  鉄道)
郵便局
東本町一丁目
点線部分大社町
 (1〜7区)
灰色部分-旧市ケ原・二日町
   (大社町1・2区)
現在の境内地
 600坪
先々住(祖父)が住職になる前より貸していた土地-800坪
住居
12軒
 

第六天信者と祐泉寺とのつながり

   大興寺の塔心礎
(薬師寺形式の西塔に位置する場所から発見)

ー旧市ケ原・二日町(現大社町一区・二区)ー
1、はじめに

 一般的に寺の入り口はおおむね道路に面しているか、参道とつながっておりその正面に本堂が位置している。ところが祐泉寺は上記の地図にもわかるとうり一般住宅の中に埋没してしまっている。借地の位置から以前は入り口(山門あるいは参道)が創立の年代が近い法華寺と相対してあったことが予想される。また、江戸時代よりたびたび無住の時代があったことや、境内の地形からしてもっと広かったことも考えられる。
 この地域は平安時代から三島大社の門前町として伊豆の中心地として栄えていた。戦国後期の西暦1567年、小田原北条氏の箱根以西の中心的な武将の北条新三郎(早雲の第三子の幻庵の遺領を引き継ぐ)が伊豆の交通の要所に一族の菩提寺として、当地に祐泉寺を創建した。その後秀吉の小田原征伐で寺は荒廃したが、江戸時代三代将軍家光のときに他の伊豆・相模の早雲寺末寺とともに再建された。しかし北条一族の氏寺であった為、寺の維持管理が困難で、以後無住の時期がしばし続くことになった。
 大正初期に先々住(祖父)が住職となり現在に至っている。この祐泉寺があった旧市ケ原付近は江戸時代は門前町や宿場町として、明治・大正・昭和時代は伊豆の玄関口として商業の中心地として非常に栄えていた。この無住職時代祐泉寺をささえていた人々は境内にある第六尊天の信者たち、その多くが旧市ケ原と二日町(一部)の商店主であった。その中より現在までに残っている痕跡をたどってみたい。
◎第六天の奉納板より
  @享保10年奉納(1725年)   豆州三島 伝馬町 市ケ原 二日町
  A寛政10年奉納(1792年)   奉納者の名前はなし
  B嘉永 6年奉納(1853年)   市ケ原 二日町氏子
  C元治元年奉納(1864年)   市ケ原 二日町世話人  練屋儀兵衛 小沼善右衛門  大黒屋岩次郎柏屋宇七 鈴木屋岩浦
  D明治15年奉納(1883年)『第六天の社が現在位置に移転した様子が奉納板  の裏に書いてある』市ケ原、二日町の有志者


2、本堂の再建の特志者より
 大正時代に住職となった先々代住職(高田義門)頃の祐泉寺は6畳2間の小さな庫裏のみで、龍沢寺玄峰老師の休息場としてたびたび使われていた。昭和4年檀家20余名と第六天の信者(旧市ケ原、二日町の商店主)らが中心となり現在の本堂を新築したが、翌年11月北伊豆震災にて本堂が倒壊してしまった。しかし数年後には上記の檀家、第六天の信者らによって再建(倒れた本堂を修築)し現在に至っている。私が子供の頃は本堂が市ケ原町の公民館的場所として子ども会、老人会、第六天祭の祭典、各種会合等使われていた理由が大人になってわかってきました。旧市ケ原町は商業が盛んであったが土地が狭かったため以前から人々が集まるこの祐泉寺を地域の公民館的場所として本堂を作ったと思われる。

祐泉寺本堂再建寄付者より
1、祐泉寺檀家       松田廣吉以下18名
2、旧市ケ原         上記写真の寄付者18名
3、旧二日町         大橋春太郎以下6名
4、旧宮倉、田町、中島等  20名


3、大興寺(代用伊豆国分尼寺)の礎石より
 境内にある礎石の西側にはこの塔心礎が発見されたいきさつが書かれている。下記にその内容を示してみたい
 現在、祐泉寺境内にある大興寺跡礎石(伊豆代用国分寺)は水と緑と歴史の『街中がせせらぎ散策コース』の一つにもなっている。昭和27年日大の軽部教授らによって大興寺発掘調査にて金堂、講堂、回廊、山門跡など薬師寺形式の跡の形態や白鳳期の瓦などが出土された。その瓦は三島市の文化財第一号とされ祐泉寺の玄関に保存されている。塔心礎発見当時の歴史的遺構の保存がきわめて適切であり、旧市ケ原や二日町の住民の文化的意識が極めて高かったことがうかがえる。
4、現在まで続く第六天のお祭り
市内の神社の多くが三島大社と関係が深く、町内の氏神とされ、江戸後期の『豆州誌稿』などの古文書にも明記されている。しかし寺持ちの佛である第六天は公式的には出てこない。しかし狭い境内にある第六天のお祭りは他の町内と同じあるいはそれ以上の内容で催されていた。
 私の記憶の中では、子供の頃(50年前)本堂内を舞台に演劇をやったり、あるいは境内前の道路で映画を見たこと、又露店も何軒かあって子供たちにとって楽しみの一つだった。祭典日は7月27・28日の二日間であったが十数年前より大社町全体が主催するするサマーフェスティバルが8月第一日曜日になり、それと伴って第六天も7月の第3日曜日頃に1日だけ催すように変わってきた。
 ところが10年前頃から町内の市若会(青年団)が祭典を実行してきたが年々参加する実行委員が4・5人で運営することが多くなりお祭りの催しが困難になってきた。数年前より大社町 1・2区の区長が音頭とりとなり区民からボランティアをつのり、事前打ち合わせを定期的にするようになり20名前後の協力者がえられるようになった。大社町1・2区以外の子供も参加できるので100人前後はお祭りにくるようになってきている。

4、おわりに
 もともと小田原北条氏(北条新三郎一族)の氏寺として出発した寺であったが、この狭い大社町付近では祐泉寺創立(戦国時代末期)当時から十数軒あった寺町であった。江戸時代初期に再建されるが檀家のない寺として当初から寺院維持の困難さが浮かび上がってくる。江戸・明治時代、しばしば住職のない時期があり祐泉寺からもっとも近い臨済宗の寺の和尚(田町の福聚院)が法事など行っていたようである。大正時代からは上記の事柄から第六天の信者(旧市ケ原・二日町)らが祐泉寺の維持管理にも関係するようになり旧市ケ原・二日町の各種集会場所の寺として現在にいたっている。

    第六天のお祭りの様子       大興寺の塔心礎石について
 
 
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