6月中旬ころ三島市大社町一区の区長から第六天の祭事終了後1時間位『第六天の由来』を講演してほしいと要請がありました。平成12年に20ペ-ジほどの第六天の小冊子を大社町1・2区に配布したのですが難しい表現もあり読んだ方も多くはなかったようでした。今回は1時間の講演の中でみなさんが興味のある戦国時代の第六天の広がりを中心に構成するつもりでした。ところが最近購入した来年の大河ドラマの本『天地人(火坂雅志著)』に「三郎景虎と景鏡の後継者争い」のことが上巻のほとんどを占めていることがわかりました。三郎景虎は祐泉寺を創立した『北条新三郎氏信』と深いつながりがあり、講演のまとめの資料として小田原北条氏の詳しい史料『小田原北条記上下』をもとに下記の文章を調べました。
 蒲原城落城後勢力を拡大した武田家の勢力に対抗するため小田原北条家と上杉家と同盟を結ぶのであるが交換条件として人質問題が浮上する。北条幻庵は後継者の新三郎氏信が武田信玄との蒲原城合戦で戦死したので、その後を氏康の子・西堂丸(元服し幻庵の名前三郎を与える)を娘婿とし後継者にしたが1年もたたないうちに人質として上杉家へ出されるようになった。しかし謙信は人質としてではなく自分の養子とし、さらに幼名であった『景虎』の名称を与え『三郎景虎』として優遇した。また後継者争いで姉の夫『政景』を殺害したとされる謙信はその子『景勝』を養子にするがこの二人の養子が突然の謙信の死により上杉家の後継者争いにつながってしまう。このとき景勝の幼い時から側近であった『直江兼続』の策略によって北条家から支援をうけた景虎との後継者争いに勝って上杉家を引き継ぎ、以後直江兼続は家老として上杉家を支えていく。
 三郎景虎の三郎の名称は北条早雲の第三子にて三郎・長綱(法名--幻庵宗哲)の名前からつけたといわれている。幻庵は若くして亡くなった長男に三郎(宝泉寺創立)、その後幻庵の後継者となる弟が新三郎(祐泉寺建立)で、その新三郎が蒲原城にて戦死した為幻庵の後継者となる氏康の子(西堂丸)を幻庵の婿養子として元服させ『三郎』という名前を残した。幻庵は幼き時、三井寺に修行に出され、またその後箱根神社別当となりるなど歴代頭首に次ぐ所領と実力を持ち、かつ宗教界に精通していた。
 
幻庵の婿養子の候補となった要因として幻庵と密接な関係にあった早雲寺第八世梅隠宗香禅師の存在が挙げられる。梅隠和尚は幻庵の長男の三郎か建立したとされる宝泉寺(小田原)の第2世でまた次男の新三郎が建立した祐泉寺(三島市)の開山でもあるからである。若くして早雲寺に修行に出された氏康の子(西堂丸)も修業時代からよく知られた存在であり早雲寺で長く修行していた梅隠和尚も周知していたと思われる。その後も幻庵と梅隠和尚の関係は二人が死ぬ秀吉の小田原征伐前後まで続くことになる。

  北条幻庵一族の家系
  蒲原城落城後の上記大名の変遷         

        参考文献 小田原北条記上・下 

                ホ-ム          

蒲原城落城後の北条氏と
    上杉氏との同盟
   h20,7,14

上杉景勝と後継者争いをした上杉景虎のルーツとは

上杉家継承

(謙信姉室)

政景

謙信 
(長尾景虎)

長尾為景

直江兼続の活躍

北条氏政支援

後継者争い×

養子

養子

景虎

景勝

×後継者争い

(武田勝頼の間接的支援)

※御館の乱(景虎一族滅亡)

上杉家へ人質→養子(景虎)へ
幻庵の娘婿へ(元服して三郎➡後離縁

(氏康の六男)

西堂丸

北条氏滅亡

(北条三郎・長綱)

氏隆

⑤氏直

④氏政

③氏康

①北条
 早雲

②氏綱

幻庵

※蒲原城で戦死

新三郎

武田氏滅亡

後継者-勝頼

京都
西上へ

蒲原城
落城

武田信玄