北条早雲の第三子として生まれ、幼名を菊寿丸実名は長綱、僧名を宗哲号して幻庵と称する。幻庵は早雲が三島大社に参籠した明応2年(1493年)秋に生まれた。北条家滅亡の半年前97歳で没したが、後北条の興亡そのものであったとされている。
幻庵は幼少より箱根権現に入寺し、のち近江三井寺にて修行、その後箱根権現別当になる。早雲が没してからは後北条一族の重鎮として活躍、武将としてまた一流の文化人・教養人として北条五代の支柱のような存在であった。幻庵が残した『幻庵覚書』は礼儀作法の書として有名であり、当時の風俗、儀式など知ることができるなど北条早雲の人柄をそのまま引き継いだといわれている人物である。また『小田原衆所領役帳』では北条家家臣団の中では最高の5442貫を有する。小机(現横浜)の城主で小机衆や三浦衆の家臣団を指揮し、軍事面や領国支配に属する朱印状や印判状を数多く伝えた。
嫡男時長が若くして亡くなった為、氏康の弟の氏堯に小机城を与え後見人となった。氏堯没後次男の氏信を自分の後継者とし小机城を与え、幻庵自身は伊豆の修善寺に幻庵館を建て隠居する。永禄13年(1569年)蒲原合戦で後継者の氏信が戦死したため翌年氏康の子・西堂丸を養子とし、自分の娘と結婚させ後継者とした(元服して幻庵の名前三郎を与える)。ところが結婚して1年もたたないうちに上杉謙信との同盟の中で、幻庵の婿養子であり、元服した三郎が謙信の養子として越後へ行くことになる。三郎は名を謙信の以前の名前より景虎と称されることになり、謙信死亡後は景鏡との後継者争い(御殿の乱)の中で母子とともに戦死してしまう。
氏堯を娘婿にしたとか氏堯と氏光、氏忠が同一人物とした時期や氏政の兄弟説もあったが後北条の研究では第一人者である黒田基樹氏は『戦国北条一族--平成17年初版』でも一部疑問もあるが氏堯の子として氏忠、氏光を挙げている。
その後北条幻庵は氏康の六男氏光を養子とし景虎死亡後小田原に戻された妻と再度結婚させ後継者としたとも伝えている。いずれにしても幻庵が統括していた武蔵の小机城(横浜)は幻庵→時長→氏堯→氏信→氏光→氏隆(順番は一部不明)と引き継がれていくのであるが幻庵の影響は計り知れない。
また氏信には嫡男氏隆がいたが蒲原城での戦死後伊豆の修善寺大平にいた幻庵はその一族を支援したのは言うまでない。氏信が創建した祐泉寺の支援や伊豆の早雲寺末寺の曹源寺・あるいは龍泉寺の建立に際しても多くの援助を与えていると予想される。なお、氏隆は氏直に従って高野山に追放されるが、その後開放され四国生駒家へ仕官するがその後は不明である。 天正17年(1589年)11月、北条幻庵は97歳で死去、幻庵が創建した金龍院(明治4年廃寺--その後北条とは関係の無い曹洞宗の寺院として再興)に『金龍院殿明吟哲公大居士』として戒名が現代まで伝わっている。
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景虎養子後
若くして死亡
(金龍院創立)
(元服して三郎)
男子
西堂丸(氏康の子)
氏忠
景虎
(上杉謙信養子へ)
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氏堯
(氏康の弟・幻庵後見人)
※徳川頼宣(紀州藩初祖)
徳川頼房(水戸藩初祖)
娘
(後に四国生駒家へ)
氏康の子
氏光と再婚
(上杉景虎のルーツ、蒲原城主北条新三郎、戦国末期の中央諸大名の動向などのフレーム項目もあります)
参考文献:小田原北条記上・ 早雲寺史研究風土誌『川津』no5、15、23、25・戦国遺文 月報 3・戦国北条一族 北条早雲とその一族 新人物往来社
※西堂丸
※宝泉寺、祐泉寺、 金龍院とも
早雲寺末寺
子供?
北条氏滅亡の半年前
まで生存 97才
高野山へ追放
→
※御館の乱で死亡
→
蒲原城合戦で戦死
北条幻庵一族の家系図
幻庵〜時長〜氏堯〜氏信〜氏光〜氏隆へ(歴代の小机城主)
※氏堯
女
為昌
幻庵
景勝の姉
※氏光
※氏忠
氏堯の子が有力
徳川家康側室
氏隆
(三郎・長綱)