頼房(水戸藩初祖)

徳川家康

北条氏信・氏堯・田中泰行と
  お万の方(徳川家康側室)の関係

※氏康の弟

正木頼忠(勝浦城主:実父)

早雲幻庵氏信 氏隆

頼宣(紀伊藩初祖)

お万の方

うじたか

氏綱氏堯

おまんの方の詳細系図

蔭山氏広(河津城主:養父

田中泰行の娘(※板部岡雪斎の姉)
※別名岡野融成、田中融成北条氏政の外交僧

  過日、お万の方(徳川家康側室)のル-ツの探究ということで北条新三郎氏信の墓地を見学に来た人に出会いました。また一昨年懇意にしている郷土史家の長野利男氏(三島在住)が郷土伊豆の伝承を調べる中でお万の方の母の祖父が祐泉寺を建立した氏信の子氏隆ではないかということで調べたこともあったということを聞いていた。当時は私はその件につては全く知らなかったので早速インタ-ネットでお万の方(養珠院)の出生についていろいろ調べてみた。徳川頼宣(紀伊)と頼房(水戸)の母であるお万の方の出生については多数なデ-タがあり、いくつかの具体的な古文書などから分析したものも少なくなかった。その中でも祖父が氏隆説、北条氏堯(氏康の弟)説、北条氏政の某弟説など諸説があったが不明な点も多かった。そこで以前箱根郷土史家で後北条氏についても詳しい故岩崎宗純氏(正眼寺住職)と関係のある小和田静男氏(静岡大学教授)に上記のことを手紙で尋ねたのですが現在のところはわからないということであった。従ってその時は不明瞭なものをホ-ムペ-ジに公開し、その資料がひとり歩きすることを考慮して作成しなかった。最近は戦国時代史のブ-ムもあり、北条氏信墓地を見学する方の中、特に戦国史が詳しい人が多くなりました。そこで一つの見方としてからお万の方と新三郎氏信の関係があるかどうかを推察してみたい。

 お万の方の出生についての記述についてよく知られているのか下記の古文書である。
①本山可澄(水戸藩)の正木家譜----元禄13年(1700年)
 『女子 名万、 母同為春、生千相模小田原-----途中略----頼忠在小田原時、妻岡本氏-----以岡本氏嫁北条氏政---下蔭山長門守源寺氏広、生二男一女』

②寛政重修正木家譜----幕府が寛政11年(1799年)諸大名の家系を再編集した正木家譜
 『頼忠 初邦時--------途中略------母は氏隆が女、天正3年父頼忠勝浦帰る後 外祖父氏隆に養育------。』

③南紀徳川史-----明治中期編纂
 『---------田中泰行娘:岡野融成(氏政外交僧)姉の子、氏隆養女)--------』

④峰文書----天正8年(1580年)3月20日  伊豆河津にいた正木頼忠から小田原城の蔭山氏広(河津城主)に宛てた手紙
 『相・房御和睦以来-------途中略----忘却候、菊松事、------比至干被返環者-----』
 ※菊松(頼忠の子為春?)を返してほしいという内容------のちに紀伊家家老になる
上記の資料は時の権力者や勝者の都合の良い解釈で記述した面を考慮しなければならない。②の寛政重修正木家譜と③の南紀徳川史に出てくる氏隆氏堯の誤記というのが現在では有力な説であるが幕府が再調査させた家譜の文書に重要なお万の方の系図に誤記があるとは-------?
 過日河津町教育委員会の宮本氏より風土誌『川津』の中でお万の方に関する資料数点を送っていただきました。その資料と上記の①~④の古文書を参考にお万の出生について要約するとつぎのようなことになると思われる。

 北条幻庵は嫡男三郎が戦死すると氏堯(氏康の弟)を小机城主として後見するが、その後氏堯は氏直の正室の侍女(冨樫介の娘---岡本氏)を側室とした。(元禄13年正木家譜より)側室が生んだ娘は小田原にいた正木頼忠(勝浦城主)と結婚し二人の子供が生まれるがその一人が徳川家康の側室となるお万の方であると言われている。また、明治中期の南紀徳川史では田中奉行の娘(岡野融成姉の娘)が生んだ子がお万の方とも伝えている。その後子どもを残して小田原を去った正木頼忠は峰文書の中でも子どもを返してほしいと手紙をだしている。ちなみに手紙をだした先の相手は小田原城にいた蔭山氏広(河津城主)で、正木頼忠の妻を後妻とし子供二人を養っていたその人である。勝浦城が落城して伊豆河津に逃げ延びた母と娘(お万)はしばらく北条屋敷に匿われいたがその後養父となるの河津の蔭山館でしばらく生活することになる。さらに小田原北条氏が滅びると伊豆修善寺の加殿で隠れて生活していたと言われている。
 お万の方の祖父の北条氏堯の所領が河津で、また養父の蔭山氏広の館も河津あるということは事実である。以前河津に所領をもっていた氏忠の墓がある河津町沢田林際寺(臨済宗建長寺派)にその墓と位牌が残っており、また林際寺への氏堯の寄進状二通も現存している。さらに最近まで氏堯、氏忠、氏光が同一人物という説や氏堯の息子が氏忠と氏光とも考えられ混乱をしていた時期もあった。後北条の研究の第一人者である黒田基樹氏は『戦国遺文』や『戦国北条一族-平成17年初版』の中で氏堯は氏康の弟で、氏忠と氏光は氏堯の息子であると指摘しているが一部疑問の余地も残している。
 また、河津城主であった蔭山氏広氏のもと庇護された子供(お万の方、為春)の為春については峰文書というものが現在まで河津正木家まで代々続いて残っている。尚、峰文書については現代までつづいている河津正木家が所蔵しており、またこの地域(伊豆河津町付近)には正木姓が非常に多いい。
 従って上記のことより氏隆説より氏堯説が正しいとされているが一時期、氏堯と氏光が同一人物として誤って認識されていたことが幻庵とお万の方の関係につながったのではないかとと思われる。幻庵が以前城主であった小机城主(横浜)には三郎時長(長男)、新三郎氏信(二男)、氏暁、氏光、氏隆など幻庵の族縁関係につながってくる人物がお万の方の母に関係してくるとは-------それだけ幻庵は小田原北条家の中でいかに重要な存在だったかをあらわしている。
 その後、お万の方が徳川家康に見染められたいきさについては伊豆各地にいろいろ伝承されている。上記の加殿での生活後駿河国大平(沼津市)の豪農星谷家に出仕していたが伊豆代官の江川太郎左衛門より三島宿での徳川家康の接待役を命じられ、家康の目にとまり側室になったという話である。この根拠となったものに星谷家から紀伊徳川家に提出した文書(天保11年--1840年)の控が現存している。
 このようにあまりにも有名なお万の方の出生がはっきりしておらず、当時の関係する場所においての思いが(願い)が言い伝えられ、徐々に期待を込めて変わって行く中で現在に残ったのではないでしょうか。
 お万の方の出生については平成21年4月に河津町教育委員会の宮本氏より送付していただいた『戦国遺文--後北条編-黒田基樹』・『風土誌--川津』の中で宮川富賢氏の「河津戦国史談」を参照して、平成21年5月8日に一部修正しました。

※北条幻庵一族について不明な部分があり平成22年5月にメールにて黒田基樹氏に問い合わせたところ『北条早雲とその一族』を照会された。それを基に一部訂正した。主な確認したところは古文書の北条氏堯と氏隆は誤認、北条幻庵の娘と氏堯とは姻戚関係はなし、氏堯の後見人は幻庵、氏堯の子は氏忠と氏光、幻庵の娘婿は氏秀ではなく氏康の子(西堂丸)等である

     北条氏堯寄進状(林際寺)   林際寺を訪ねて河津へ


                    


                                    

うじたか