北条氏堯・氏忠ゆかりの林際寺(河津町)を訪ねて h21,5,23

 過日、河津町教育委員会の宮本氏よりお万の方のツ−ツが書いてある『風土誌 川津』の数点を送っていただきました。昭和56年頃からのもので、一部疑問の箇所もありやはり現地へ行ってたしかめたいと思い、お万の方の探訪では大変熱心な長野利男氏(三島在住)と5月23日(土)に河津へ行ってきました。長野氏はお万の生誕地の勝浦や河津には以前行ったことがあり、正木家の直系の正木源七氏(前河津町長)とも会っているようでした。今回の目的はお万の方の祖父になる北条氏堯寄進状とその息子の氏忠、さらにお万の方が建立した蔭山氏広の墓を検証するため河津町の林際寺(臨済宗建長寺派)を尋ねることである。午後2時に訪れるという事で早めに家をでたので2時間ほど河津付近を探索、以前長野氏と知り合った方の案内で正木家本家や、お万の方の駕籠がある乗安寺(日蓮宗)、縄地金山跡も尋ねることもできた。
 林際寺では寄進状や他の古文書など準備万端に用意していただき、住職のお母さんも本堂まででてきてくれました。『風土誌 川津』ではわからなかった乳母ケ懐が創立当時にあった林際寺のもとの場所(現在の場所から数キロ奥)でそこに北条氏忠や蔭山氏広の墓があり、現在でも数町歩が寺領として残っている。林際寺の由緒によると開山松嶺道秀和尚は14才のとき伊豆小坂の曹源寺の黙翁和尚の弟子となったと伝えてあるが、この寺は私が兼務している寺であり因縁というものが感じられた次第です。帰りに修善寺の大平で北条幻庵が建立した金龍院(明治時代の廃仏毀釈によっては廃寺となるが曹洞宗の寺として再建された)を見学して帰途についた。今回の目的がある程度検証できたということで、北条氏堯の子が氏忠である理由づけができたと思います。

紀伊・水戸徳川家初祖の母お万の方と北条氏堯、北条幻庵一族とのの関係とは

林際寺本堂前にて

お万の方のル−ツを訪ねて

蔭山氏広の供養塔--お万の方寄進

 左記と同じ乳母ケ懐にあるようだが場所は未確認。河津町が寺院一覧を作成するときにその供養塔の由来を寺の記録より下記のように表記した。当時は一石五輪の墓を建てたようだが現在は基礎と傘のみ。
征夷大将軍前右大臣従一位源朝臣家康公御息宰相中将頼宣少将頼房之母、持氏六代之裔蔭山長州利広息女、蓮花院妙招日心
寄浄財於諸僧------略-------。
慶長九甲寅二月誌之(西暦1605年2月)

林際寺所有の河津町史より接写

創建当時の林際寺は現在位置より数キロ奥の乳母ケ懐に位置し、その脇に上記の墓がある。中央の丸い水輪は昭和以降に付け加えて修理しようだ

   林際寺本堂にあった写真より接写

北条氏忠の墓

現在の金龍院(曹洞宗 修善寺大平)

北条幻庵の戒名 金龍院殿明吟哲公大居士

乗安寺の日遠上人をかくまったとされるお万の駕籠(乗安寺本堂保存)。写真をとりそこねたので河津町史より接写

お万の方が産湯として使ったとされる井戸(時盛屋敷内)。各地に同様な井戸があるが勝浦が正しいようだ

左が正木家当主源七氏、右が長野利男氏
正木家が経営するそば店(時盛)に偶然お目にかかれた

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北条幻庵が創建した金龍院跡

北条氏堯朱印状

河津年貢餞の内以五貫四百文村串
島澤鈴木前より可有御請取候仍
如件

  壬戌
   八月廿日  氏堯(花押)

   林際寺
      参 

北条氏堯寄進状

為瑞泉庵弔
河津庄林際寺
え毎年五貫四百文
宛奉寄附候
二季彼岸施餓
鬼并盆三度
三貫文霊供免
僧扶持貮貫四百文
合如此毎日法花經
一巻宛奉讀誦
後生?可吊者也
仍如件
  (永録五--西暦一五六三年)
    壬戌
八月廿日  氏堯(花押)
  
  林際寺
      参