北条幻庵一族の系図と景虎との関係は
上杉家を継承
○
×
(三郎・長綱)
※氏秀と西堂丸は別人説が有力
(元服して幻庵の名より北条三郎となる)
※氏康の子 西堂丸
北条幻庵一族の系図
※秀吉の小田原征伐にて滅亡
※謙信の姉の子
後継者争い
(御館の乱)
景勝
上杉謙信の突然の死
(NO2の実力者)
(上杉家へ人質)
蒲原城合戦で戦死
男子
景勝の姉
若くして死亡
北条氏滅亡の半年前
まで生存 97才
※西堂丸
幻庵
高野山へ追放
→
景虎
(上杉謙信養子へ)
北条三郎
娘
氏隆
今まで上杉景虎の存在は一部の人しか知られてなかったが今年の大河ドラマ『天地人』で一躍全国に知られるようになった。ただ上杉景虎の誕生のいきさつは大河ドラマや本でもほとんど北条家よりの人質程度の扱いでしかなかった。この景虎誕生の舞台裏については江戸時代に書かれた『小田原北条記上・下』の現代語訳をもとに焦点を絞って概略を表記す。
武田信玄が京都を目指す途中の駿河を占領する最大の障害は富士川河口にあった蒲原城であった。北条氏康は幻庵の嫡男新三郎を蒲原城主にあてたが武田信玄との戦いで戦死しまう。後継者を失った幻庵は氏康の子・西堂丸を娘婿としたがその間氏康が病に倒れ亡くなってしまった。当時武田信玄の勢力拡大に抵抗した氏康は上杉謙信との同盟を進めている最中で、後継者になった氏政を支えたのは陰の実力者北条幻庵であった。頭首交代の中で自分の娘婿(元服して北条三郎)を1年もたたないうちに上杉家への人質を出さなければならなかった幻庵の決断は苦悩に満ちていたであろう。人質として越後へ行った氏秀は上杉謙信の幼少期である『景虎』の名前をもらい『上杉景虎』が誕生するのである。蒲原城主『北条新三郎』が戦死しなければ『上杉景虎』の誕生もなかったのではないでしょうか。
蒲原城合戦で戦死した北条新三郎は菩提寺祐泉寺に埋葬された。法名は三光院殿興誉良玄大居士
平成22年5月『北条早雲とその一族』(黒田基樹著)を参考に一部人物名を修正した
1567年 北条新三郎祐泉寺を建立
1569年 蒲原城主北条新三郎戦死
武田信玄駿河進出
1570年 北条氏康死亡
北条と上杉の同盟
幻庵娘婿氏秀→上杉へ人質
1573年 武田信玄死亡(勝頼後継へ)
1575年 長篠の戦い→武田家敗戦
1578年 上杉謙信死亡
御殿の乱にて景虎戦死
1582年 織田家武田領へ→武田勝頼戦死
1583年 織田信長暗殺される
1590年 秀吉小田原征伐→日本統一へ
祐泉寺
1567年建立
●
京都
■信玄館
織田・徳川氏
武田氏
北条氏
上杉氏
蒲原城合戦
1569年
■
■浜松城
■岐阜城
■小田原城
■春日山城
上杉景虎の誕生の舞台裏は祐泉寺にもあった?
参考文献 小田原北条記上・下(現代語訳)
北条早雲とその一族(黒田基樹著)
戦国北条一族(黒田基樹著)
※ホームには幻庵の後継者・新三郎(蒲原城主)や幻庵が関係した寺々・徳川家康側室(お万の方)との関係は?等あります
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