戦国時代の第六天の存在を
  検証するため本法寺・興国寺城跡を訪問 
h22,5,12

表鬼門
第六天が鎮守
 (字丸尾)

興国寺城跡の石碑

(第六天を移動)

本法寺

 以前清水町の泉頭城発掘調査報告書(昭和58年)を送っていただいた時、その史料に『第六天曲輪』というものが存在することを始めて知りました。その時はそれ以上深く探求することはなかったのですが3年前に蒲原城発掘調査があり、その縁でその報告書を送ってもらいました。その中に短い文章でしたが興国寺城の鬼門に第六天が祀ってあり、その第六天を隣接する本法寺(法華宗)に移したことが書いてありました。興国寺城は小田原北条氏の初祖『北条早雲』の旗揚げ城として知られ、北条五代の石杖になった重要な城です。もし第六天がこの城にあったことが事実なら、織田信長が自分自身のことを第六天魔王信長と自称して神の存在として使う前に北条早雲が第六天の信仰を広めた重要な手掛かりとなります。これを確認したくようやく5月に行く機会を設けることができました。
 5月12日10時に第六天魔王が鎮守してある本法寺を訪ね住職からそのいわれを直接聞くことができました。本法寺は豊臣秀吉家家臣中村一氏の家来で河毛宗左衛門重次の菩提寺として慶長8年(1603年)に建立した寺で重次も天正18年(1590年)から慶長6年(1601年)まで興国寺城の城主となっていた。寺の建立年月日については別の記録では永禄3年(1561年)ともなっている。
 この本法寺の場所は城内の西側にあり、平常時はこの寺に城主が住んでいたと伝え聞いていたようである。いつ城の鬼門にあった第六天が本法寺に移転されたか不明であるが『第六天魔王尊』と呼ばれ村内外より多くの方が鬼門の守護神・子供の守護神として親しまれていた。これは祐泉寺の第六天も子供を守る神様として地域の人々に愛されていたと全く同じであって不思議な気持ちがしました。

               第六天信仰の広がり--全国編

沼津商工会議所掲載許可済み

本法寺と第六天が祀ってあった表鬼門(字丸尾)の位置

天守閣があった位置から第六天が祀ってあった表鬼門(北東)の方向中央曲輪下空堀の外側の畑あたり(字丸尾)

第六天が安置してある社の後ろに置いてある奉納板

中央に第六天像--溶岩のような岩だが観音様の姿に似ている。となりは天部の仲間の姿をした像で第六天にも似ているが不明である

正面が本法寺本堂、門の左側の建物に第六天が祀ってある

第六天が祀ってある建物

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