北条早雲(伊勢宗瑞)没後500年迎えて伊豆の国市が数年前から準備してきた韮山城をめぐる文化財シンポジウムも3回目となりました。平成26年は韮山城を多方面からとらえる講演、平成29年は韮山城落城(1590年)をめぐる攻防戦の講演でした。今回は上記資料にもあるように武田信玄駿河・伊豆侵攻(1569年の世界)における武田信玄の韮山城の攻防が中心であるが合わせて周辺の城々がテーマで私の三島の寺(祐泉寺:早雲寺末)を創建した蒲原城主北条新三郎も関係しているので出席しました。1569年は武田信玄・上杉謙信・北条氏康・織田信長・徳川家康が駿河をめぐる攻防の群雄割拠の時代で戦国時代を象徴する事象が随所に出てくることを講師の武井英文(東北学院大)が指摘していました。蒲原城落城(1569年12月)後武田氏が駿河を領有することによって北条・上杉・徳川・織田の今後の展開が大きく変わってくることが明白になった節目であろう。
 下記に配布された資料の中に望月保宏氏(静岡古城研究会)が取りあげた蒲原城落城の知らせを武田信玄から真田幸隆にあてた書状が紹介されていました
  永禄12年12月6日(1569年) 真田幸隆宛て武田信玄書状写し(『静』4-12号)
 急度染一筆、今六日蒲原之根小屋放火処、在城之衆悉出合之条、遂一戦得勝利、
 為始城主北条新三郎、清水、狩野介不残討取、即時城乗取候、誠前代未聞之仕合ニ候・・・

 北条新三郎が戦死した為北条幻庵(早雲の三男:当主に次ぐ実力者)は娘婿に氏康の子(西堂丸)を元服させ婿養子として迎えた。翌年氏康がなくなり越相同盟を結ぶにあたってう次の当主となった氏政の後ろ盾となった幻庵は娘婿の三郎(西堂丸)を離縁させ人質として上杉謙信に送るが、養子として迎えられ謙信の幼名である景虎の名前をあたえられた。その後養子となった謙信の姉の子の景勝と後継者争い(御館の乱)で敗れてその景虎一族は滅亡する


       上杉景虎のルーツとは      北条幻庵一族


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平成30年度伊豆の
      国市文化財シンポジウム 
h31,2,9

正面の小高い山が韮山城

田形・三島方面が一望にできる戦略的に重要な北条氏の城

韮山城本丸があった大変見晴らしの良い場所

城池から本丸に向かう道:堀が深い

韮山城入口の看板:赤点線の部分の予想拡大図:本丸他

韮山城の案内板より:秀吉の小田原征伐時にも氏規が最後まで持ち超えた城郭の堅固さがわかる山城---なんとなく函館五稜郭に似ている

会場12時前より多数の参加者が並び、500名定員の会場は満席になるほど盛況であった

当日の資料より

三国同盟崩壊と韮山城をめぐる攻防

当日配布された資料より接写:越相同盟後の情勢概念図
(黒田基樹監修『別冊太陽 戦国大名』平凡社 2010年より引用・加筆)