祐泉寺にての山本玄峰老師の足跡

上記を表装

山本玄峰老師(龍沢寺)が書いた山門

総代の松田家(本家)墓石に書いた老師の書

先々住の高田義門時代より書院にある玄峰老師の写真

平成19年10月に表装した玄峰老師の墨蹟

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大正時代〜昭和初期にかけて

山本玄峰老師の詳細(白隠禅師からの法系)

玄峰老師銅像・宗忠老師の銅像

祐泉寺本堂再建の発起人の筆頭で当時街中の休息場であった庫裏で書かれたこと、そして今回本堂屋根銅板吹替え工事完成等の因縁より本堂正面に掲示

玄峰老師の墨蹟

当地が伊豆国分尼寺跡であったことから『国分尼寺』と書いてあった墨蹟が2幅あったが、紙の破損、虫食い、落款なしなど状態が悪くそのまま放置してあった状態のもの

祐泉寺本堂再建極意書と玄峰老師の賛助員名

松 井 山

祐 泉 寺

 玄峰老師(龍沢寺住職)が祐泉寺を休息所として使うようになった時期は定かでないが、大正4年に龍沢寺の住職(50歳)になって10年後には祐泉寺本堂再建賛助員の筆頭にその名前がでてきておることから入山してから数年後には休憩したり、投宿したりとしたのではないかと思われる。大正末期に先々住の高田義門が祐泉寺に入山した頃は6丈のお堂と小部屋が二棟と台所など庫裏は大変小さかったが、酒が好きだった義門和尚と玄峰和尚はそれ以来飲み友達として何かと親交があったと聞いている。特に大正14年に発願した祐泉寺本堂再建計画には先頭となって働きかけ、多くの賛助員を得るきっかけを造っていただきました。当時の檀家は長く無住時代があり、檀家は離散してしまい十数軒余の檀家では困難のであったが玄峰老師を初めとして近隣の寺、心経寺住職、福聚院住職の協力と旧市ケ原・二日町等の商店主の力で本堂の再建がなったのである。従って本堂は公民館的な要素をもった地域に開かれた寺で現在まで続いている。また、老師は書や墨蹟など気軽に書いてくださっており、いろいろな痕跡を残している。
 

     本堂内陣しょうめんにある墨蹟(左側の方が一回り大きい)
 
平成19年10月4日より掲示 
        以前より掲示してあった墨蹟--本堂右部屋に
    160×65cm                            120×45cm

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