北条氏と林際寺の関係

北条氏信とお万の方の関係は?

戦国末期の諸大名の動向

 北条幻庵の第2子、生年は不明であるが、没年は永禄12年12月(1569年)。兄三郎時長が若くして死んだためその遺領を継承す。新三郎の実名は今まで「綱重」といわれてきたが小田原北条氏の研究では第一人者の黒田基樹氏が指摘しているように綱重ではなく、永禄12年5月13日付岡部和泉守宛書状に「新三郎氏信(花押)」(孕石文書)にあることから「氏信」が実名であろう。正室は京都公家の西園寺公朝の娘で小田原北条氏の一族で京の公家から迎えたのは氏信のみで、父の北条幻庵の京都での交友関係の広さがうかがえる。
 1554年、今川義元・武田信玄・北条氏康らの三者同盟によって、この地方も小康状態を保っていた。義元が桶狭間の戦いで戦死しすると今川氏の旧領は武田氏と北条氏が奪い合う状態になった。永禄12年12月、北条氏康から蒲原城の守備を命じられた新三郎は武田信玄との戦いに敗れ、弟の箱根別当長順とともに戦死す。亡くなったものだけでも700名余と記録されている。武田信玄が上杉謙信との川中島の戦いが決着をつかず駿河侵攻に方針転換をするのであるが一番侵攻に障害になったのが富士川河口のそばにある蒲原城で武田信玄が総力をあげて立ち向かった合戦であった。この城の落城によって駿河を占領した武田信玄は3年後に京都西上を目指すことになる。
 生前、氏信によって建立され祐泉寺にて葬儀が行われ、埋葬された。墓所は墓地入り口より正面北側にある。戒名は三光院殿孝誉良玄大居士。
氏信には嫡男氏隆がいたが、北条氏滅亡後は当主氏直にしたがって高野山に入山、赦免後は讃岐生駒家に仕えた後出家して僧名「釣庵宗仙」と称した。その後京都に在住していたが慶長14年(1609年)に没した。その後の子孫は不明だが一説によると娘は正木頼忠に嫁ぎ水戸徳川家始祖頼房と紀州徳川家始祖頼宣の母(寛政11年正木家家譜より)となる。

       蒲原城と北条新三郎を供養した善福寺
                         
北条新三郎氏信の墓
三光院殿孝誉良玄大居士
蒲原城主
北条早雲の孫
左斜め後のやや小さめの五輪の塔の墓は不明だが、同日に亡くなった弟の箱根別当長順ではなかろうか 
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平成14年10月30日
  墓地改修
北条新三郎氏 西暦1567年祐泉寺創立

蒲原城と善福寺

蒲原城落城後の上杉との同盟

 小田原城天守閣にて出品
(出品者等より撮影許諾済み)
  H14.11.19撮影
北条新三郎氏信の甲冑
 小田原城天守閣二階中央に展示す。
他者の甲冑など5・6品もあったが、装飾など実用的でないものが目立つ中で、戦国時代の武将の特徴が出ている実践的な甲冑であろう。

北条新三郎氏信画
  画:松陰寺(原  旧妙心寺派) 遂翁和尚
  讚:林香寺(由比 妙心寺派)  芳州和尚
    蒲原 善福寺蔵(臨済宗 妙心寺派)