江戸時代までは下記の『増訂豆州誌稿』の中にもあるように当地では有数な大寺院であった。明治初期の廃仏毀釈と当時の檀家であった有力な神道指導者の影響より檀家は離散す。当時の大寺院だった名残りは寺北側を走る県道の狩野川の橋の名前『大門橋』がある。現在の小坂全体が境内で、その山門が『大門橋』となって今日まで伝えている。また本尊は聖観世音菩薩で鎌倉時代三代将軍源実朝寄進の仏像で中国の宗より取り寄せたものであるといわれている。山号の『日金山』は箱根の熱海側にある有名な山であるがその麓の伊豆山に創建されたのが曹源寺の山号の由来となっている。その後短い年月の中現在地の小坂に移転し七堂伽藍の建物がある大寺院となったと歴史書に記述されている。戦国時代前は開山の黙翁禅師が仏光国師(臨済宗円覚寺開山)の弟子で円覚寺派であったが小田原北条氏の時代になると北条五代の菩提寺である早雲寺の末寺で大徳寺派の寺となった。本堂・庫裡などの建物がいつ焼失したが不明であり、江戸期までの過去帳などもない。現在は本尊の観音様と小さなお堂と庫裡(農家形式の江戸時代建物)があるのみ。

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 『増訂豆州誌稿』(寛政年間の豆州誌稿の増訂版)

・往時官寺ニテ、多クノ寺田ヲ有シタリト伝旧記皆焼失ス
・證羊集ニ日ク、僧松嶺元徳庚午(元徳ニ年1330年)生一ニ歳登伊豆走湯山為童児時渕黙翁創曹源之址唱仏国之道ト曹源ノ址トアレバ当時再興セルカ
・按ズルニ址寺往昔賀茂郡伊豆山ニアリシヲ、黙翁(仏国禅師ノ法嗣ナリ暦応元年正月寂ス)現地ニ遷シテ再興セルナラム日金ノ山号蓋之ニ據リテ起ル。伊豆山ノ地日金山麓ニ在り走湯山記ニ曹源寺ノ事蹟見ユ今伊豆山ニ其旧址アリ寺山ト称ス。
・初巨刹ナリト云大門ノ遺称今狩野川対岸ニ存ス。村内小栗ト云処ハ七堂伽藍ノ小庫裡ノ遺址ナリト云フ。

1、宗派  臨済宗大徳寺派早雲寺末  

2、本尊  聖観世音菩薩(源実朝寄進)

3、創建  
    西暦1330年  開山-黙翁禅師(円覚寺開山無学祖元・仏光国師の弟子)  開基は不明

4、創立沿革 
    【当寺本堂内に残存する板書文章より】
  横1m、縦30cm余の松板、表題を含む文章の右端は一部なし。書かれた年月も不明、筆者も『執事』のみ。当初本尊の由来か功徳の書かれたものが、何時の時代に建物の補修として転用され、昭和2年頃発見して、額縁をつけ、現在のように保存されたと思われる。前半は『正観音菩薩由来記』で後半は観音の功徳が記されている。判読できる範囲で要約する。※判読者 曹源寺先代筆頭総代小野弘氏(文化財有識者 田方地区各校長歴任)
        
                   
『正観音菩薩由来記』

 
 源実朝公が大宋国より拝請した聖観音菩薩が久しく禁中に安置されており、鎌倉にお下げがないので、実朝は多いに怒った。そこで足立盛長は兵二千騎をもって将軍の怒りを宮中に訴えたところ、叡慮により足立盛長の館に下された。盛長はこれを鎌倉に奉ったので、実朝観悦斜ならずと 。その後、正慶年(西暦1332年)中ごろ鎌倉兵乱の折、曹源寺開山黙翁禅師が当国に持ち来たり、此処に寺を建てて安置した。(足立---安達?)
   ※1332年 後醍醐天皇隠岐脱出・挙兵 1333年鎌倉幕府滅亡(執権 北条高時)

5、場所  静岡県田方郡伊豆長岡町小坂542

6、その他
  明治時代からは他の早雲寺末の住職が兼務することが多く、常駐しない時期が多かった。寺を護る看護として三島龍沢寺の故中川宗老師の直弟子である藤井自安氏が昭和57年より入寺している。平成17年6月に逝去す。


            
    曹源寺の詳細地図

                        
     
               
日金山  曹源寺

正観音菩薩由来記 :本堂内にて

北、西、南の三方から山で囲まれた境内で唯一東側に開けている
東からの風は強い時もあるが他の風は穏やかで静かな環境

庫裡から見た庭を囲む山々

涅槃掛軸と本尊修理

本堂全体修復工事

本堂・庫裏・旧園舎修理

近年の出来事

庫裏の維持管理

寺の情景

自安禅師大往生