祐泉寺の由来
白鳳年間(西暦645年〜710年)、丈部富賀満(三島大社に関係する豪族)によって当地に氏寺として市ケ原廃寺(大興寺)を創建、西暦855年定額寺として官寺に昇格、西暦885年伊豆国分尼寺にあてられた。
 その後荒廃した旧伽藍地に永録10年10月(1567年)※北条新三郎氏信が箱根湯本早雲寺八世梅隠宗香禅師を請じて当寺を創建す。山号は松井山、開基北条新三郎は北条早雲第三子幻庵の子にて蒲原城主.
 ※新三郎の実名は今まで綱重といわれてきたが、小田原史の歴史研究家の 黒田基樹氏が指摘しているように綱重ではなく永緑12年5月13日付岡部和泉守宛書状に『新三郎氏信(花押)』(孕石文書)とあることから実名は氏信であろう。     
 永緑12年12月、武田信玄との戦いで蒲原城落城にて弟の箱根少将長順と共に戦死す。亡くなった者だけでも700名余りと記録されている。新三郎の墓は祐泉寺墓地参道の正面西側にあり。戒名は三光院殿孝誉良玄大居士。北条氏の庇護下に当寺院は守られてきたが、天正18年豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏滅亡のため荒廃してしまった。
 江戸時代に再建され、住職がいた時期もあったが、長い間無住の時代が続くことになった。その間、境内にあった第六尊天が地域(旧市ケ原、二日町)の人々に信仰され、寺の維持の支えとなった。明治から大正にかけては龍沢寺の玄峰老師の休息所として使われていた時もあった。山門の石塔は玄峰老師の書から作成したものである。
 大正時代に私の祖父、高田義門(あとで品川東海寺住職となる)が住職となったが、檀家は離散し、その残った数は十数軒、本堂も無く荒れ放題であったと伝えられる。境内の実面積は700坪余、本堂南側の山門から約30mの参道が法華寺前の広い道路まであったといわれているが義門和尚が入寺前より借地になっていた。従って山門前の細い道が通路で自家用車がすれ違うことが一部できなく、又初めて祐泉寺に来る人は広い道路(下田街道)の入口が狭く見つけにくい。寺の公簿上の面積は1500坪であるあるが、借用地の方が広く約800坪あり、本堂の北・西側はすぐ燐家がせまっているところから売ってしまった土地もかなりあったことが想像される。戦国大名の一族が建てた寺はその大名が没落すると経済的基盤がなくなり寺院経営が難しい寺が多い。
 その後、市ケ原、二日町等の商店主(問屋が多い)と十数軒の檀家らが中心となり、本堂を再建。以後地域の集会場の中心地として場所などを提供。また町内の祭典場所や老人会、子供会などにも使われた。昭和5年伊豆震災のとき,本堂が倒壊したが、檀家や地域の人々の協力を得て、本堂が復興された。その後私の父高田岩保が住職(沼津女子商業、現加藤学園兼職)となり、寺院らしく整備されていった。昭和57年より現在に至るまで高田保明(平成12年まで公立学校勤務)が住職となり合わせて伊豆長岡の大徳寺派曹源寺の住職となり、寺の維持に努めている。尚平成9年より伊豆の大徳寺派龍泉寺も兼務するようになった。
平成29年1月副住職の祐介和尚(前住職長男)が新住職となり上記2ケ寺も兼務している


                祐泉寺と三島明神とのつながり

祐泉寺開基北条新三郎氏信の墓

  戒名 三光院殿孝誉良玄大居士

祐泉寺本堂

開基 北条新三郎氏信(早雲孫 蒲原城主)
    永禄12年12月6日没
     (西暦1569年)
      蒲原 善福寺蔵

開山 梅隠宗香禅師(早雲寺第八世)
    天正17年11月26日没
     (西暦1589年)
     箱根湯本 早雲寺蔵

氏信と景虎

玄峰・宗忠老師の銅像

白隠とジョンレノン

玄峰老師との関係は

玄峰老師と白隠禅師の法系

第六天信者

北条氏信