平成30年度伊豆の国市文化財シンポジュウム 当日資料集より接写

北条氏の勢力

小田原城

今川氏

興国寺城

伊豆半島
真鶴
 半島
三浦半島
房総
  半島
清水港

韮山城

大きな歴史の流れを早めた蒲原城合戦

静岡県
神奈川県
東京都

富士山
小机城
(横浜)

岩槻城-太田氏
(埼玉県)

1565年頃の勢力図

蒲原城
長浜城
山中城
駿府城
千葉県

幻庵屋敷

→→

宝泉寺・伝心庵
昌福院・鎖雲庵
願修寺
武田氏の勢力 

戦国末期の駿河・伊豆の大名勢力

のろしの位置

長浜城とのろし

長浜城と朱印状

韮山城と攻防戦

長浜城整備

北条幻庵と早雲寺末寺

龍泉寺建立と長浜城

 平成31年2月9日に韮山時代劇場で戦国後期西暦1569年の群雄激突の世界のテーマで武井英文(東北学院大学)の講演会がありました。以前から蒲原城落城が大きく各大名の侵攻の節目となったことを書いてきたのですが今回の講演で確認することができました。下記は前に書いたものを再度提示したい。
 蒲原城落城によってようやく駿河進出を果たした武田信玄は念願であった京都上洛の体制を整えた矢先、病魔にたおれてしまった。この出来事が世の中の激変を導くことになるがその流れの速さを年表にまとめてみた。
蒲原城落城後は武田氏は西に北条氏は関東に、上杉氏も関東へと大きく方向を変えるが武田信玄がなくなると武田家に向かって各大名が勢力拡大に侵攻することになる。北条幻庵の後継者である北条新三郎が蒲原城在住はわずか1年であったが上記のように蒲原城落城の1569年から織田信長が死んだ本能寺の変の1583年の十四、五年の短期間に政権の中央に挑戦した戦国武将の進退が数年単位で起こってくるのである。従って蒲原城落城がいかにその後の世の中の激変をまねき、さらに日本統一を早めたのではないだろうか。

蒲原城落城後の織田・徳川、北条、武田、上杉家の動静
年代 織田・徳川家 北条家幻庵一族の動向 武田家 上杉
1567
新三郎-祐泉寺建立
 早雲寺第八世開山
 ※新三郎-幻庵の所領継承
北条家とは同盟
1568
信長上洛


1569
新三郎・弟長順蒲原城にて戦死
 幻庵、氏康の子養子
          信玄 駿河占領
1570
          上杉家と同盟
 幻庵養子--上杉家へ人質
※後氏隆(新三郎長子)が後継へ
 氏康死亡

 三郎影虎として
  謙信の養子へ
1572 三方原で敗北     信玄--家康軍に勝利
1573

  信玄死亡
1575
長篠の戦い

 氏政の妹を勝頼に嫁がせる
勝頼敗北
 北条家と同盟

1578  駿河侵攻    





氏政--景虎支援 


龍泉寺建立?
 
早雲寺第八世開山
勝頼-景勝支援 

謙信死亡
  ※後継者争い
景勝(謙信姉の子)

三郎景虎戦死

 景勝後継者
1579

氏政・幻庵対抗 
 韮山城--龍泉寺--長浜城
   長浜城(北条水軍の拡充)
 ※補給路に関係して建立?
   (山越えル−ト)
勝頼伊豆侵攻
 ※武田水軍
  (今川水軍踏襲)

1582
〜1583
武田領侵入

本能寺の変
 
信長死去

勝頼死亡
  武田家滅亡

1589
影の指導者北条幻庵死去
       97才


1590 秀吉軍
 小田原征伐
 北条家滅亡
氏隆(新三郎長子)--氏直と
         高野山に追放


1600 ※1598
 
秀吉死亡
関が原の
    戦い




西軍に味方し
 領土30万石に
        減少
1603

家康
江戸幕府開く

氏隆--四国生駒家へ仕官
        その後不明
家光時代早雲寺末寺再興



                            
                    

越相同盟後の情勢概念図」
 黒田基樹監修『別冊太陽 戦国大名』平凡社 2010年より引用 

三国同盟関係図
 池亨「動乱の東国史7 東国の戦国争乱と織冨権力」吉川弘文 2012年より

徳川氏
 の勢力 
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江戸城

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